広島の平和祈念公園、平和祈念資料館に行ってきました。

日本への原子爆弾投下は、武器、戦略をもたない人間に対して行われた行為です。これに異論をとなえる人はいません。

日本は戦後、どう歩んだか。
東京裁判において、戦勝国によって日本は裁かれ(裁く側はすべて戦勝国が派遣した人物でした)、
「日本は侵略戦争をした」 ことになりました。法的根拠がどこの国の法律、国際法に照らしても皆無という裁判でした。
戦後、日本は6年8か月の長期にわたり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策を受けます。

多くの日本国民が戦争の犠牲になった責任は、「日本陸軍参謀本部といった軍閥や戦前のリーダーにある」、と教えられました。
だれが教えたか――GHQが選んだ教育者(日教組(左翼団体)といった方が分かりやすいでしょうか)です。

戦後、混乱していた日本国民は、東條英機元首相に全責任を押しつけることで、道徳的欺瞞から眼をそらし、精神的安定を得たといえます。学校でもらう教科書に書かれてあったのは、自虐史観でした。

そして広島平和祈念公園の原爆死没者慰霊碑には 「過ちは繰り返しませぬから」 という文字が刻まれる。

これが、戦後の日本が歩んできた道です。


ここまで語っても、何も不思議に感じないのが今の日本人です。
「そうや、日本人は中国や朝鮮でえらい悪いことしたからなあ。当然や。」
と言って、自分で自国を裁いて納得する。反日日本人になっています。

日本が戦争に至った本当の理由、原因を教えられず、ある人物ある国々の都合で作られた歴史で教えられてきたから。
またそのウソの教育を受けた人が首相となり、国会議員となり、地方公務員となり、大学・高中小の教師となって社会を動かしている。
そのもとに私たちは日々の生活をし、子どもたちはその教育を受けている。

だから、
本当の歴史を知っても、消化、受け入れることは難問だと思います。

ここでもおかしいのは、「本当の歴」史??という言い方。  へんな言い方です。
歴史っていうのは「過去に起こったこと」「過去に起きた事実」を記したものなんですから、敢えて「本当の」ってつけるのはおかしい。

でも実際は歴史書物というのは、変え、追加・削除しながら作られました。なぜか――
真実が世に出ると都合の悪い、人間がたくさんいたからです。
時代のトップ、重要人物たち。
我が国でも 「古事記」、「日本書記」がすでに、歪曲、すりかえて作成されたものであることは、知られるようになってきています。


ですから歴史を正しく知るってことは、とても難しいことです。

歴史を学ぶときは、
自分は、本当の情報、本当の歴史を得て育ってきたんじゃない、という認識の地点にまず立たないと、
結局は、自身の中の長年の間に培われてしまった塗り替え済みの偏見や観念に負けることになってしまいます。
非常にしんどい作業です。

こんなこと言いだすと、「「右」か、「左」か などと、
歴史のことを述べだすと、すぐそっちに結びつける人がいます。これもゆがんだ考えです。
世の中にもともと右も左もありません。人間が勝手に作った思想です。
私のなかにも右も左もありません。


ところで
アメリカが日本の立場になってたならどうか――

原子爆弾が落とされたのは アメリカだったとしたら。。。。

おそらく誰もが意外に簡単に想像しうるでしょう。
一番最近の例として、あの9.11事件の後を想定すればいいのだから。

報復戦争、報復攻撃に出る。
しかも、お決まりの言葉、「○○を忘れるな」をスローガンに―― 
「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」、「9.11を忘れるな」、、、、
これらはアメリカ国民を戦争に向かわせる大義名分として、使ってきた手段です。
また、Pearl Harborで知られるように、最初の攻撃、最初の一発は敵にやらせる、とか、自作自演の戦術がすきなようです。
このことは、いい加減世の中でも知られてきています。


東條英機歴史の証言東京裁判宣誓供述書を読みとく

GHQの『発禁第一号』となった
『東條英機 宣誓供述書』
大東亜戦争の真実―東条英機宣誓供述書


多くの日本人が今だに憎み、批判的にとらえている東條英機氏

東條は東京裁判をとおして、
この戦争は「侵略戦争」ではなく「自衛戦争」であるが、
「敗戦の責任」は自分にある、負うと宣誓口述書で明言。
責任は自分にあって天皇にはないと主張。

東條氏は昭和23年12月23日零時に死刑執行される。
この日は天皇誕生日でした。





アメリカと日本のこの違いは何か?
なんで日本人は原爆というホロコーストを受けていながら、報復に出ないのか?
日本への原子爆弾投下――これは武器、戦略をまったくもたない人間に対して行われた行為であることに異論をとなえる人物はいません。

いくら戦後教育が歪曲したものであると言っても、
戦争に至った本当の原因、東京裁判の虚偽を分かっている日本人は多くいたはずです。
なのに、本当の歴史はほとんど表に出ないまま、今に至っています。

どうしてこんなことになったのか。


東條氏はアヘン戦争にまで遡って審理してみなければ、現代史の審判は不可能だと東京裁判の証言台で喝破しています。


アヘン戦争
1839年〜1842年 対戦国:清帝国、大英帝国 19世紀の戦争。
イギリスによるインド産アヘンの中国への輸出が原因となって起きた。

そしてこのアヘン戦争といえば、思い起こされるのが

欧米とソ連の植民地争奪(大航海時代)

です。

中学校の教科書で、1492年のコロンブスのアメリカ新大陸の発見、
バスコ・ダ・ガマのインド航路発見

を習いました。「何かよくわからんが輝かしいな」、というぐらいの感覚でした。

植民地化された側、侵略された側である、インディアンや先住民族や古代文明のことを考えることはしなかったと思います。
羅針盤だの航海術だの、試験に出そうな用語を覚えるのに必死でした。
インディアンや先住民族や古代文明側の話を授業で聞いた覚えもありません。

1492年10月12日から、500年目の1992年に、それを記念したイベントが多数企画され、
中でも、フランスとスペインの両文化省の援助を受けた仏/西/米の合作映画『1492・コロンブス 』は、彼の信念、家族愛を盛り込んだ
壮大な大スペクタクルとして公開されました。
映画のチラシによると、「500年前の真実が今、我々の目の前で美しくも豪快に繰り広げられる」なんてあったそうです。

なぜ、こうも勝ち組が表に出て、賞賛の対象になり、
いわゆる負け組は表に出ることなく、その苦難の歩みが常に隠れた存在になっているのか。

理由は意外に簡単です。

コロンブス新大陸発見の後の欧米・ソ連の繁栄ぶりを見れば。

初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした早い者勝ち の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。

ちなみに「大航海時代」をインターネットで検索すると、
中世ヨーロッパ、七つの海を冒険する海洋MMORPG。海賊と戦う軍人、ワインや胡椒を扱う貿易商、
世紀の大発見を目指す冒険家など選べる職業、スキルで面白さ充実のオンラインゲーム。無料体験お試しプレイ可能!〜
オンラインゲーム?  ガクー。こんなのがトップに出る今の世の中なのです。

大航海時代、植民地時代をキーワードとした定義を見ても分かるように、
繁栄とは何か?
――物質です。お金です。経済です。莫大な物利益です。これを「そうじゃない」と否定できる人はいないでしょう。
それを教科書は「繁栄」と記述しています。だから物質利益=繁栄=すばらしい

ヒトの世の中がそういう観念で動いてきた。
経済的・物質的栄耀栄華が「繁栄」である、というとらえかた。

一方、侵略された側、インディアン・先住民族・古代文明は、物質・お金・経済・莫大な利益を基盤としていたでしょうか。
いいえ、むしろ精神性、宗教性を重んじていました。

中学・高校時代、「コロンブスか。何かよくわからんが輝かしいな」ぐらいにしかとらえられなかった貧弱な私の脳みそを
数十年たった今からやっと覚醒していこうと思います。


ありがたいことに著書がちゃんとありました。


『侵略の歴史』この500年、白人は世界で何をしてきたか  清水馨八郎 (千葉大学名誉教授)

清水馨八郎さんの講演です
手作りで描いた資料を黒板にぺたっと貼ってほのぼの。
お元気です。時々声が大きくなるのはやはり戦争・軍隊をくぐりぬけてきた人の特徴か。
ダジャレがお好きなようで、「蒙古人、もう来ない!!」などと、真剣な顔でおっしゃる。
2・3人がグヒっと寒い苦笑するところがなんとも笑える、
齢90歳、愛国の思いと情熱に満ちた講演です。
「日本文明のユニークさとその世界的使命」1
「日本文明のユニークさとその世界的使命」2
「日本文明のユニークさとその世界的使命」3

残虐非道の奴隷狩り、奴隷貿易の実態 p126より
最初にアメリカ大陸に到着したスペイン人は、簡単にアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼし、金銀宝物を略奪し、反抗する先住民を見境なく殺していった。その数は、多く見積もって1億人(白人がもたらした流行病死も加えて)にも上ると言われる。
これでは金銀の鉱山が発見されても、採掘の労働者が足りない。佐藤や、コーヒー、たばこなど白人に都合の良い植物農耕のための人手も足りない。
そこで彼らが考えたのが、アフリカから労働者として黒人奴隷を連れてくることであった。彼らは原住民を殺しすぎた結果、労働力不足に気がつき、鉱山労働力や農場の労働力をアフリカから収奪することになる。白人たちは人を多数殺しておいて、その穴埋めにまた悪事を働く。ここに人類史上に刻まれる2つの悪行を、彼らは同時に進めることになった。
ギニア湾は、ポルトガルからアフリカ西岸に沿って南下して東に回り込んだところで、ここはアフリカ内陸部から奴隷を刈り集め、奴隷船で需要地の西インド諸島や南米に送り込む積出地として好位置にある。
そのギニア湾岸には、今でも地名として奴隷海岸(スレーブ・コースト)(ナイジェリア、ラゴス付近)の名が地図に残されている。さらにこの海岸には白人泥棒たちが金を盗み出して盛んに運び出したという黄金海岸(ガーナ)や、象牙を盗み出した象牙海岸(コートジボアール)、穀物海岸(リベリア)などの地名がつけられていて、白人300年の犯罪史がはっきりと刻印されている。
奴隷狩りには、3つの方法がある。
第一は拉致、誘拐である。動物を捕らえるように待ち伏せして、通りがかりの先住民を攫ってゆく。第二に白人奴隷商人とアフリカ首長の契約。首長が他部族に戦争を仕掛け、捕虜を大勢捕まえて商人に渡し、代わりに安物の鉄砲やたばこや酒、ガラス玉と交換する。第三は、首長が白人と組んで同胞を売り渡す、買弁的行為である。
集められた悲運の奴隷たちは海岸の奴隷貯蔵庫に格納され、奴隷船が来るのを何日でも待たされる。奴隷貯蔵庫の地獄絵のような悲惨の実態は、文化人類学者、川田順造氏の『曠野から』(中公文庫)の実態調査報告で知ることができる。奴隷船には複数の奴隷商人の商品(奴隷)が積み込まれるため、所有者の見分けがつくように、牛馬のように腕や腹に焼印を押され、二人ずつ鎖でつながれて暗い船倉に放り込まれる。船倉は天井が低く、立つことも横になることもできない。奴隷たちはそこに詰め込まれ、汗まみれ、くそまみれの生き地獄が待っている。だから航海中に半分以上は死亡した。死体は無造作に大西洋に捨てられ、魚の餌食にされたのである。


はしがき
明治以来、日本は欧米を文明先進国と崇め、世界史とは西洋史のこと、西洋からのみ見た世界史のことで、非白人を歴史の表舞台に登場させることはなかった。そのため近代西欧の繁栄を支えた植民地支配の暗黒面を見落としてきた。コロンブスの米大陸到着は、侵略の始まりで、白人は「鉄砲と十字架」を手に、残虐非常な手段で全地球をその支配下におさめてしまった。
彼らは、白人以外は人間として認めていなかった。だから新大陸の先住民インディアンら一億人でも、簡単に抹殺できた。インディアンは、日本人と先祖を同じくするモンゴロイドだ。さらにアフリカからの一億人もの奴隷狩り、奴隷貿易、奴隷酷使が続く。
本書は白人の残虐性、侵略性の根源は何か、そして19世紀末までアジアのほとんどの民族が白人の植民地に組み込まれた由来を解明する。
20世紀になって白人の支配に従わぬ唯一の国・日本を、北からソ連、西からイギリス、東からアメリカが一挙に襲いかかったのが大東亜戦争である。白人の手口はコロンブス以来のもので、原爆投下、113都市無差別焼土作戦、ソ連の満州侵略の暴虐と、民族抹殺のホロコーストのやり方は、500年変わらず一貫していた。
東京裁判は、負けた日本に、白人500年の侵略と残虐、植民地支配の罪のすべてを転嫁するための大芝居であった。この結果、日本人は何もかも日本が悪いと戦争犯罪意識を骨の髄まですりこまれたために、反省自責の自虐史観にこだわり、敵側の陰謀の世界史を目隠しされてしまった。この虚偽の歴史観で「謝罪を国是」とする「戦後体制」が構築された。これから脱するには、昭和史とか大東亜戦争史などといった短期間の歴史から見るのでなく、歴史のスパンを500年に、空間的視野を地球的規模で大観することで、世界史を読みなおし、真実に迫らねばならない。
ここで初めて、この対戦は日本が一方的に負けた戦争でないこと、日本が一貫して叫び続けた人種差別撤廃の目的が完全に果たされ、地球の地図が一変していることに気がつく。日本は戦争に負けて植民地解放の目的に買っていたのだ。東條さんの映画『プライド』は、日本人の誇りを開く入口になったが、さらにここで、白人侵略の世界史とこれを迎え撃った日本の使命を知れば、一段と自信と誇りを取り戻せると確信する。


勝者の論理を押しつけられた歴史認識
戦後日本の社会を一言で表現すれば「敵を忘れ、敵を失った社会」、つまり故意に敵を失わされ、忘れさせられた社会ということになる。ここに、ふがいない戦後社会の元凶があるのだ。
世界の戦争の歴史は、独仏間のように勝ったり負けたりの復讐戦の連続であった。そこで日米戦に勝った米国は、日本が再び立ち上がって米国に復讐できないように、日本民族の愛国憂国の魂を抜き去り、その穴埋めに、戦犯意識をすりこみ、さらに敵を味方にスリカエる巧妙な占領政策を7年間も続けた。3年半の戦闘で武装解除させ、その2倍の時間をかけて精神の武装解除を強制したのである。
マッカーサーは占領政策で、厳重な言論統制下、日本人に大東亜戦争の真因を分析批判することを禁止した。少し研究すれば、たちまち米国の侵略性、加害性の謀略が明らかになるからである。彼は先手を取ってこの戦争の呼称を「大東亜戦争」から「太平洋戦争」へとスリカエることを命じ、日本が太平洋を越えて米国を侵略した戦争というイメージを植え付けた。続いてGHQのスミス企画課長が勝者の立場で独断で捏造した「太平洋戦争史」を、開戦の12月8日を選んで強制的に全国新聞に一斉に連載させ(昭和20年)、NHKに命じて「真相はこうだ」と放送させた。こうして何もかも日本が悪いという史観を国民に植え付けるのに成功した。続く東京裁判はその筋書き通りに進められ、日本の暴虐性、米国の正当性を決定づけるよう演出された。
さらに、マッカーサー元帥は自身を、封建社会、軍国主義から日本を救うためにやってきた救世主であるかのようにふるまい、日本人にとって敵でなく民主主義をもたらしてくれた味方、恩人だと思うように仕向けた。これぞマッカーサーのマインドコントロールの妙である。
戦後日本の社会ではテキという存在をなくされ、意識しなくさせられてしまった。テキという言葉はタブーとして、使うことがはばかられるように長い間飼い慣らされてしまった。
さらに米国は、日本にとって明らかな侵略者である外敵であるのに、これを忘れさせただけでなく、日本の真の敵は東條英機ら軍閥や戦前のリーダーたちであり、日本の歴史、文化、伝統などもすべて同罪であると洗脳した。悪いのは米国でなく日本の指導者や日本精神や制度だとスリカエたのである。それに対して日本国民も本当に洗脳されて、敗戦の怨みをもっぱら戦犯やパージの同胞に向けるようになってしまった。ここにおいて日本人は敵を取り換えてしまった。戦後の不幸の出発点が、ここにある。

歴史教科書論争をどう読むか
自分の生まれた国の歴史を悪し様に罵り、軽蔑し、自国に反逆するように導く自虐史観を摂る国が世界にあるはずがない。戦前の日本には自虐史観という概念は存在しなかった。だからこれは戦後の、ためにする造語である。
最近の歴史教科書の偏向のひどさはガマンならぬと、まともな歴史学者や教育関係者が立ち上がって修正運動に励んでいる。良いことであるが、このような運動、現象自体が、普通の国では起こりえないものである。
一国の歴史の自己決定権、解釈権は、独立国家の至高の権利である。戦後の日本の歴史教科書は、マッカーサー占領政策で歪曲され、さらに近隣諸国にお伺いを立てて、他国に都合よいように決めてもらった歴史認識によって書かれている。だから二重に歪曲された虚偽の歴史で、真の歴史ではない。

軍事力以上の破壊力を持つ行為とは
さて、それでは敵が他国を懐柔するのに、軍事力による物理的な破壊でなく、なぜ歴史を攻撃するのであろうか。ある国民の自尊とかプライドというものは、常にその国の歴史的評価と分かちがたく結びついているものだ。だからある民族を滅ぼすには、まず歴史(記憶)を消すことだという箴言がある。ある国の根幹を揺るがすことを目的とするなら、その国の歴史を攻撃することで最大の効果を上げることができる。
マッカーサーの占領政策は、当初、教育管理令の下、歴史の教育を禁止した。続いて許可した新日本の歴史とは、日本人が誇りとしてきた古事記、日本書記も、神武天皇の建国の理想も排除され、古来からのおとぎ話まで消されたものだった。また国家のために尽くした楠木正成や東郷平八郎元帥などの忠臣や武将の名を削り、反対に足利尊氏や幸徳秋水のような不忠者や国家に対する反逆者をたたえるように強制された。
マッカーサーは東京裁判で軍人を裁いただけでなく、不法にも歴史をも裁いてしまったのである。歴史を傷つけるという行為は、国民にとってまさに軍事以上の破壊力を持つものであることが次第に明らかになってきた。
かくて大東亜戦争によって日本侵略を目指す二つの白人勢力は、東からのアメリカと、西からのロシアであった。しかもその侵略は物理的破壊の軍事侵略だけでなく、精神的破壊の文化侵略まで強行したのである。一件目立たない文化侵略の恐ろしさは、軍事侵略より深刻である。国家は内部から腐敗、堕落し崩壊してゆくからである。
最近至るところに見られる亡国の兆しはその現れである。

「西洋病」患者、日本の成立事情
かつて長い間、日本人にとって世界とは西洋のことで、そこには東洋もあり、南米もアフリカもあることをしばし忘れていた。それは長く日本では欧米を通して世界を見るように飼い慣らされていたからである。幕末から明治維新、戦前戦後を通して日本の近代化のモデルは、一貫して西欧だけであったからだ。文明とは西洋のことで、それは美化され尊敬されあこがれの対象となっていた。
日本は外国人を西欧人と非西欧人に二分して意識し、西欧のみを唯一先進文明圏とみなし、それに追い付き追い越すことを国是としてきた。非西欧地域はひとくくりにして、文化、宗教すべて遅れた地域と軽蔑し、長い間関わり合いを持つことさえ避けて問題にしなかった。つまり非白人地域は、日本にとって関心の対象外として無視され続けた。
明治維新を迎える19世紀末期ころまでに、非白人地域はほとんどすべて西欧白人の植民地に組み込まれていた。
一方日本は、当時、非白人の中で唯一植民地支配を受けていない珍しい国だった。初めて西欧文明と接して、憎むどころか驚きと感動は尊敬と憧憬に代わり、ひたすら西欧に接近し、「追いつけ追い越せ」となったのである。当時の日本人にとって西欧は、畏怖・恐怖と賛美・羨望の交錯する複雑な対象であったが、その他の非白人の国のような憎悪や反抗、復讐の念など、生まれようはずがなかった。
当時の世界で日本人だけが、自国の伝統文化を温存したまま、西欧文化を自主的に、よいものだけを選択的に取り入れることができた。これに対して非白人の植民地では、西欧諸国の利益追求が中心で、伝統文化は破壊され、征服者に都合の良いキリスト教や外国語を強制された。

今こそ白人の暗黒の歴史を白日のもとに
西欧500年の発展、繁栄の基盤になっていたものは何であったのだろう。それは、世界史上例をみないほどの悪逆非道の非白人の支配と掠奪であった。西洋文明の発展、西洋人の栄耀栄華の陰に、その何百倍もの非白人の苦痛、苦難の犠牲があったのである。5世紀にわたって白人の文明と繁栄を支えるために、どれほどの不正と搾取、虐殺と殺戮があったことか。今こそ、この白人の触れたがらない暗黒の歴史を白日の下にさらす時が来たのである。これなくして21世紀の平和は語れない。この過去の世界史を総括しない限り、21世紀の真の世界史は生まれないと知るべきだ。
それなら、なぜ日本では多数の留学生や学者、外交官が西欧に渡っていながら、彼らの暗い面、西欧文明の内部にひそむ矛盾点を日本に伝えなかったのであろう。
それには無理からぬ点もあった。明治以来、一貫して西欧は文明の先進国で、日本はこれを一方的に学びとる生徒であった、はじめから教えを請う先生を疑うことなど考えてもみなかったからである。

明治政府が招いたお雇い外国人教師の功罪
ヨーロッパ白人の、非白人に対する残虐非道ぶりは、コロンブスのアメリカ大陸到着、ピサロやコルテスによる印化やアステカ帝国の滅亡の悲劇、アフリカの奴隷狩り、アメリカ・インディアンの抹殺から大東亜戦争における無防備都市の無差別爆撃、広島、長崎の原爆投下による大虐殺まで一貫している。
この西欧文明の一大暗黒面を白日の下にさらす作業は、日本では残念ながら、大東亜戦争の敗北によってタブーとされてしまったために、行われないままになっていた。ここにおいて、戦後日本の学界、社会一般に見る世界史は、またしても西欧優先絶対主義の思想で貫かれて、非白人から、日本からの世界史は、封印されてしまったのである。
なお、川勝平太氏(国際日本文化研究センター教授)によると、日本の西洋史、世界史における西洋中心主義の偏見は、明治20年から帝国大学で招いたお雇い外国人教師ルードヴィッヒ・リースに遡るとのことだ。
彼の講義が日本における近代歴史学の誕生だったのである。彼は近代歴史学の父と言われたランケの高弟だが、そのランケは世界史講義の中で、アジアを蔑視、敵視し、アジア野蛮論を説き、西洋優位支配の正当性を述べている。西洋は善であり父であるという、西洋から見た世界史の伝統が、帝大の西洋史のリース教授を通して、現代の教室にまで尾を引いているのは不幸なことである。
お雇い外国人の月給は、当時の大臣クラスに当たる参議の大久保利通とほぼ同額であった。その数は527名にも及んだ。これらは、英米独仏等の欧米からだけであった。帝国大学の各分野の学問の基礎は彼らによって形作られた。これでは西洋礼賛一辺倒になるのは当然である。
戦後、マッカーサーが進駐するや東大教授の中には、保身のためマッカーサーにすり寄り、日本の文化伝統を蔑視し、欧米賛美の反日的、裏切りの売国奴を多く出した。谷沢永一氏が「悪魔の思想」(クレスト社)で指摘した横田喜三郎、丸山真男、大内兵衛などの法経学部教授のみならず、史学、人文系(林健太郎)の学者にもこれらのタイプが多く見られることを、心ある日本人は早くから見極めていたのである。
歴史は勝者によって作られる。
日本から見た世界史、東洋から、広く有色人種から見た主体的な世界史に書き直さねばならない。


なぜ、白人は侵略的なのか――その歴史、宗教、風土から、原因を探る
人間は環境の子であるといわれる。世界の多様な人種、言語、宗教、社会、文化、歴史の違いを決定するものは、その地理的位置と気候風土であるとみて間違いない。
世界には砂漠の国、草原の国、大森林の国、極寒の国、灼熱の国と、様々な厳しい環境の国がある。日本の環境は、光と水と土と緑の調和した極めて恵まれた地上の天国といってもよいほどなのに、国民はこれを当然のことと思い、特別感謝していない。
西洋の主要都市の緯度は、樺太の50度線よりさらに北に位置する。これらは、私たちには想像もつかないほど、冬の太陽光の乏しい町である。花の都パリでさえ、49度という高緯度の都である。
日本では、太陽は真冬でもさんさんと輝く。冬、ロンドンから帰った人が、東京(北緯35度)の空の明るさ、光り輝く太陽のあまりの明るさに、眼がくらみそうだと感動するほどだ。光の少ない冬期のロンドンでは、スモッグが加わり、あたりは陰惨というより凄惨の気が漂うと言われている。日が出ても「月光」のような鈍い光にすぎない。どんよりとくすんでいる。西洋を包むこのくらい陰惨な風土は、その民族の心情に底にも、かげを落としているに違いない。
欧州や地中海沿岸地方では、年間の降水量が日本の1/3、ないし1/5と少ないうえ、その雨も冬に多く、夏は少ない。野の雑草は枯れ、日本の野辺のように虫がすだき、草葉が朝露に濡れるといった「わび」、「さび」の風情は出てこない。
欧米の大地は日本よりはるかに高緯度にあって氷河時代に氷食作用を受け、地殻の内部が地表に露呈し、片麻岩のような硬い岩石が地表にむき出している。人々はこの岩を打ち砕かねば町も道路も耕地もできない。泥が全く混じらぬ一枚岩の上にこそ、ニューヨークの摩天楼といわれる超高層ビル群が立ち並ぶことが可能になったのである。この硬い岩を打ち砕くためにダイナマイトの発明がとりわけ歓迎された。
これに対して日本人は、河川が運んできた土砂が、湖水や谷、浅海を埋め立ててできた沖積平野に住んでいる。泥のつまった堆積土であるために土壌はやわらかく、植物の栄養をたっぷり含んでいる。日本ではダイナマイトは不要である。
ヨーロッパの石の土壌から豊かな稲作文化など、生まれるはずがない。農耕文化には不適である。

収穫より略暴の方が効果的という考え方
日本では古くから「一粒万倍」の言葉があるように、収穫量は神の恵みと感謝してきた。ヨーロッパの農業は 日本人には想像もつかないほど生産性が低い。冬の長いヨーロッパでは、春の来るのが遅れると、致命的な打撃を受け、飢餓は慢性的になる。種用として貯蔵していた穀物まで食料に廻さねばならない。このような苛酷な風土では、生きるためには略奪によって補うより他に道がない
西洋史の大家、会田雄次氏によると、「略奪が一番簡単で、一番豊かな生活を約束することで、ヨーロッパ以上のところはなかったのだ。日本では泥棒、強盗はバカがやる一番損な仕事になっている。略奪はヨーロッパでは、優秀な人間がやる企てであると考え、日本とは全く逆の価値判断である。イギリスの王家は先祖が海賊であったことを誇らしげに宣伝しているほどだ」(「日本の風土と文化」
乏しい食料をめぐる激しい争い、そして略奪を生存のための当然の権利と考えるヨーロッパ人の性向は、ここに由来する。

狩猟・牧畜民族の残虐性
ヨーロッパでは、耕すべ大地から得られるものがあまりにも少ないので、その上でいかに生き残るかの「生存の文化」になるのに対し、日本では、その大地の上で、いかに豊かな生活を楽しむかの「生活文化」が中心となって生まれる。生きる目的が生存にあるか、生活にあるかとでは、大変な違いである
日本では戦前まで、町でも村でも一般大衆が日常鍵を持ち運ぶキーライフというものを知らなかった。欧米人はまず他人を疑い、関係はすべて契約で成り立ち、自己の所有物は鍵をかけないと安心できない。明治になって日本を訪れた西洋人が、日本の農村を旅行して、夜、蚊帳を張って寝ている姿が外から見えても平気でいるのにビックリ仰天したそうである。スキがあれば略奪、強盗が日常で、鍵社会で身を守る欧米人からみると、丸裸の無防備の日本人の生活は、異常に映ったのであろう。
中世までのヨーロッパの農民たちは、略奪と防備に備え、武器を備えていた。農民といえど戦う戦士であったのだ。
狩猟生活は絶えず動物に罠やおとりをしかけ、騙し捕え、おびきよせる技をみがかねばらなない。遊牧も牧畜も絶えず動物を殺し、食し、血を見て暮らす生活である。動物に憐れみなどかけていては生活が成り立たない。数千年にわたる厳しい環境の下で、ヨーロッパ人たちが獰猛な肉食動物的残虐性を持つようになったのはこのためである。

VIPのもつ本来の意味とは
ヨーロッパでは重要な人、偉い人のことをVIP(Very Important Person)と呼ぶ。インポートとは、輸入とか輸入品の意味に使われる。それがなぜ重要なのか。産物の乏しいヨーロッパでは、他国から自国の方へ物資を持ってくる、獲ってくることは、仲間が生きるために最も重要なことだったからである。食糧やその他産物を自分たち集団のために持ち込むことは、その手段が略奪であろうと泥棒であろうと国益にかなっているので問題ないのである。
最も効率が良いのは、他国の貿易船、宝船を海賊行為で奪って、そっくり自国に持ち込むことである。これほど同族を喜ばせ、豊かにするものはない。これほど重要なインポータントな英雄なないのだ。英国王の先祖が海賊であることを誇りとするわけも、ここにある。子育てのために獲物を狩りしてくる感覚である。そこには何の罪も悪の意識もない。
コロンブスがアメリカ大陸を発見し、先住民から莫大な財宝を奪ってヨーロッパに持ち込んだ。だから白人にとって、彼は最も重大な英雄中の英雄(VIP)になるのだ。ところが物を盗られ、殺されたインディアンの立場からは、コロンブスは一億人の先住民を殺戮する動機を造った極悪の犯罪人、悪魔中の悪魔である。その後のヨーロッパの繁栄が、歴史から抹殺されてしまったこの一億人の悲惨と怨念の犠牲の上に成り立っている。この表と裏の歴史的事実を明らかにしない限り、真の世界史は成立しえない。

「聖書」を生んだカナンの地の過酷な風土 重要
ヨーロッパ人の世界侵略のシンボル、手段は「剣と十字架」である。「右手に剣、左手にバイブル」。剣は力、聖書はそれを生み出す精神。つまりその侵略を神の許した給う聖なる戦いと位置づけている。
侵略戦争の背景については、キリスト教の正体を知っておかなければ説明ができない。
キリスト教の生まれた聖書の故郷パレスチナの地理的背景はどうだったか。私はバイブルを開くたびに、部厚い本の最後に載っているたった一枚のカナン(パレスチナ)の地図を眺めていつも嘆息するのである。アブラハムやキリストやその弟子たちが活躍した聖書物語は、すべてこの狭い地図の中で起こった。その自然環境は、人間の生活に最も厳しい土地とされている。
人間生活にとって、日本は雨に恵まれた「湿極」と呼ばれ、カナンの地は「乾極」と言われて正反対の環境である。石ころだらけの土地、砂だけの砂漠、岩塩におおわれた不毛の地、塩分濃度が高く生物を寄せ付けない死海のような恐ろしい土地。
カナンの地がいかに人間にとって厳しい土地であるかは、その中央にその名も死海という名の塩の海があることで象徴的である。死海の谷は地球の裂け目であり、海面より300mも深く、地の底をのぞくようである。
人間居住空間としてカナンの地は、絶望的で例外的な土地である。この極悪な地に押し込められたユダヤ民族の宗教、これを母胎とするキリスト教の教えや戒律が、どうして普遍性をもちうるであろうか。まして湿極の日本人の生活に馴染むはずがない。
ユダヤ民族は、強大な東方の帝国の辺境にある貧困な、疎外された民であった。貧しい周辺地域に追いやられた牧畜民族の運命は、絶望的であった。
彼らはエジプトや三日月地帯(メソポタミア)の繁栄を羨望し嫉妬しながら、どん底の貧困生活を送らねばならなかった。だから彼らの崇めるヤハヴェの神は、他民族の繁栄を呪う嫉妬の神となる。同時にその富を略奪し、搾取する機会を約束する「征服の神」である。この神はその約束を実現する代償として、ユダヤ人に、貧苦と忍耐と禁欲と団結を強要する。
会田雄次氏は、いくら旧約聖書を読み返してみても、そこにどうしても理想と愛を見いだすことができない、と述懐している。彼は、そこに見られる征服と繁栄に対する妄執に、人間のおぞましさを感じるだけだ。粉飾された言葉の裏の執念に、怖気をふるうだけだと言っている。

一神教民族と多神教民族の違い 重要
パレスチナ、アラビアの酷烈な自然風土の中では、自然に対決し、自然を征服しようとする絶対神を必要として一神教を生む。
これに対して自然の温和な湿極の日本では、自然順応、調和、共生の多神教が生まれる。
一神教が排他独善の不寛容な神、妬みの神になるのに対して、多神教は、誰をも受け入れる極めて寛容な慈愛の神となる。
仏教を生んだインドの世界は、モンスーン地帯に属し、高温多湿で、土地の生産性は極めて高い。ここで生まれた仏教は、当然キリスト教のような苛烈さ、峻厳さを持たない。日本もモンスーン地帯なので、血のしたたる刑死の十字架を祈るより、慈愛に満ちた釈迦の自然死の涅槃の像に親しみを覚える。日本にあるたくさんの仏像のどれをとっても残虐な血の匂いはない。経典にも戦争だ破戒だ、殺戮だのといった残酷な場面は出てこない。
キリスト教は、家畜を殺して暮らす遊牧民や狩猟、牧畜民族に都合の良い宗教になっている。動物は、人間に使われ利用され食べられるため神によって作られたとする論理が成立する。
神は地上に、神に似せてまず人間を創った。次にその下に被造物として動物を、そしてその他の物を造った。だから人間は神に代わって動物を家畜とし、これを殺し活用してもかまわないのだ。
他民族を侵略したり、戦争を仕掛けて勝てば、その民族は殺されるか奴隷にされる。奴隷は人間ではなく、羊や牛の家畜と同列の扱いである。奴隷は家畜だからこき使おうが、殺そうが勝手で、そこに罪の意識をを全く感じないで済む。
さらに神が自分の姿に似せて創ったという人間とは、白人のことであって、、黒人のごときは、神を侮辱する獣であるから絶滅するのが神の意志だという論理になる。コロンブス以後の白人が、発見した新大陸の先住民をいとも簡単に殺しつくしたのは、白人以外の植民地民族をはじめから人間としてみていなかったからである。奴隷狩りや奴隷市場で売買された黒人など、牛馬と同じ家畜と考えない限り、あれほどむごいことはできなかったはず。白人以外は人間でないと、キリスト教を白人に都合よく解釈して、その侵略や殺戮、植民地支配を正当化していった。白人の植民地支配の罪業が、人間として悪の意識、罪の意識を感じないですむように、キリスト教は都合よく利用されたのだ。

宗教戦争を続発させたキリスト教の不寛容性
キリスト教はローマの国教となり、さらに北欧に進んだ。入信しない領民は、すべて神の敵、異端として神の名により抹殺することができる。この神は嫉妬と憎しみの神であるから、自分に従わぬものに徹底した不寛容を示し、戦い、殺し、征服することを求めた。
愛はただ、この戦いに共同する者の戦友愛にすぎなかった。ローマ時代の支配者に都合がいい「お前は死ね、自分はお前のものをとって生きる。」という理論が復活した。
キリスト教思想の根本は、ローマ帝国の支配の論理に集約できる。それは「お前のものはおれによこせ、お前は飢えて死ね。お前のものを奪うことによって俺は生きる。」である。これは狩猟、遊牧民族の生存競争の原則である。キリスト教はこれを信じない異端者には特に厳しい。ローマカトリックになってからこの排他独善の傾向は、一層強化された。
これがヨーロッパ人の深刻な宗教戦争を生み、十字軍戦争、百年戦争などの原因になっている。
15世紀以後、世界に展開することによって、人類史上類のない異民族大虐殺の犯罪を起こす


聖戦とは名ばかりの「十字軍」の正体
パスカルは『黙想録』で、「人は宗教的信念によっておこなうときほど、喜び勇んで、徹底的に悪を行うことができる」と述べている。「神、それを欲し給う」という宗教的信念に訴えれば、キリスト教者をどのような罪の深さも、神の名によって帳消しにされる。罪が罪として意識されない。
ヨーロッパ人が、中世東方に侵略した十字軍の侵略の残虐行為も、近世、世界中を荒らしまわった植民地帝国主義の暴挙も、このような罪の意識を持たないですむ彼らに都合のよい宗教的信念で進められたのだ。西欧文化が「罪の文化」といわれるのはこのためだ。
十字軍というと、キリスト教とのヨーロッパ人が、聖地エルサレムを異教徒の手から奪回するための聖なる宗教戦争だと教えられてきた。白十字の楯を持つ騎士の凛々しい正義の姿がイメージされる。だがそれは西欧の歴史家によって美化された姿にすぎない。
十字軍とは、11世紀末(1096年)から13世紀後半(1270)に至るまで、7回にもわたって行われた遠征。一般には中世のカトリック教会が異端の徒や異教徒に対して行った遠征軍のことで、後世、十字軍という言葉は、ある理想または信念に基づく聖なる正義の行動としてプラスイメージで使われてきたが、真実の十字軍はとてもそんなものではなかった。
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの兄弟宗教の共通の聖地である。だから各信徒の礼拝の自由は、誰がエルサレムを統治するにせよ、保障するのが道理で、事実イスラム統治下でもキリスト教徒の聖地巡礼は、大体保障されている。
ところが十字軍はこの長年の慣行を破り、聖地をキリスト教で独占した。
当時エルサレムはイスラム教を奉ずるトルコ系のセルジューク王朝の支配下にあった。時のカトリック教の教皇ウルバヌス2世は、エルサレムを異教徒の手から取り戻すべく「神それを欲したまう」と檄を飛ばし、西欧の諸侯や騎士は、これに熱狂的に答えた。

近代まで連なる西欧人の「十字軍」精神
十字軍は宗教的信念というより、略奪した戦利品の山分け、土地の分配といった経済的欲求に煽られた人々だ。だから第一回の十字軍で、エルサレムが十字軍の手に落ちると、大虐殺、略奪が行われた。大勢のイスラム教徒やユダヤ教徒は、神殿ないにあつめられ、火を放って生きながら焼き殺されてしまった。たちまち聖地エルサレムは血の海と化した。
ナチスによるユダヤ人の虐殺は誰でも知っている。だがこの犯罪は、ナチス固有のものではない。キリスト教徒のヨーロッパ人によるユダヤ人の迫害、虐殺の歴史は、既にこの十字軍によるユダヤ人殺しに始まっていたのだ。(大沢正道氏『ヨーロッパ帝国支配の原罪と謎』)
数次にわたる十字軍東方遠征の暴徒によって、略奪、暴行、殺戮はすさまじいものがあった。東方の人は十字軍の所行を見て、西方から来た野蛮人としてのヨーロッパ人の本性をそこに見たのである。
大沢正道氏によると、キリスト教を信奉するヨーロッパ人にとって十字軍に発揚された精神は、十字軍魂としてその後のヨーロッパ人の行動原理となっている。なるほど第二次世界大戦後のアイゼンハワー大統領の対ソ冷戦は、反共十字軍の呼びかけであ、湾岸戦争は米軍にとってはアラビア十字軍という名の聖戦のつもりだった。
このヨーロッパ白人の十字軍魂は、近世になって今度は海を越え、地球の隅々まで侵略し尽くす世界植民地時代につながっているのだ。
第二次世界大戦の米軍の極東日本への遠征も、聖なる十字軍の延長である。

身の毛もよだつ「異端審問」の実態
異端審問=日本では宗教裁判と訳されている
中世はヨーロッパの暗黒時代といわれる。その暗黒の大半は、ローマ・カトリックの狂信に由来する。キリスト教の「異端審問」の酷しさは、密告、拷問、火刑となって、ヨーロッパ世界を恐怖の底に陥れた。
第一:密告の奨励。他人を密告することは、聖職者の信頼を勝ち取り、自己の保身になる。密告社会ほど人間同士が信頼できぬ暗黒の恐ろしい社会はない。
第二:拷問の承認。なぜ愛を説くローマ教会で拷問が頻繁だったかというと、ここにも十字軍魂がある。教会は神の代理人であり、教会が用いる拷問は「神の名において」行われ、「神が欲し給う」ことなのだ。だからどんなひどい拷問をしても許される。
第三:刑罰の厳しさ。火あぶりの火刑が代表的。火刑も、絞殺してから火刑にするものと、生きながらの火刑がある。オルレアンの聖女・ジャンヌ・ダルクは、魔女として、生きながらの火刑を受けた。
中世の教会の魔女狩りとその裁判ほど残虐、残酷なものはない。魔女は告発、密告、世間のうわさだけで簡単に決められてしまったからだ。嫉妬、憎悪、不信の社会で「あの女は魔女だ」と言われただけで犠牲にされる恐ろしい時代だ。教皇イノケンティウス8世が1484年に魔女裁判を公認してから以後200年で、無実の罪で死んでいった犠牲者は300万人から900万人と諸説があって、永遠の闇の中である。これほどの凄惨な女性受難史は世界にない。
ヨーロッパ世界を混乱させ、人々を不幸に陥れた戦争は、すべて宗教に由来するといってもよい。十字軍戦争がその代表であるが、いつ果てぬとも知らぬ世界最長の百年戦争も三十年戦争も、七年戦争も、旧教と新教の紛争のユグノー戦争もみな宗教戦争である。
ヨーロッパの大衆は戦争の犠牲を受け続けただけでなく、異端審問や魔女狩りなどでいかに多くの人々が宗教の名において悲惨な目にあわされたことか。
人間を幸せにするはずの宗教が、逆に人間を不幸におとしめるという意味で、ヨーロッパほどひどいところは世界にない。その不幸を近世になって世界中に広めることになったのである。今こそ世界史におけるヨーロッパの原罪を徹底追及しなければならない。その中で一神教としてのキリスト教の原罪を忘れてはならない。


スペイン・ポルトガルの世界征服
新大陸の先住民の運命と、二カ国による世界二分割構想

コロンブスのアメリカ大陸発見は、世界史上前人未到の大壮挙である。我々は小さい時から、「コロンブスの卵」」の寓話とともに、人類の発展、幸福に寄与した偉人、英雄として教えられてきた。ところが、この壮挙は、西欧白人の非白人に対する侵略史の始まり、悲劇の出発点だったのだ。我々は新大陸発見の「発見」という言葉に幻惑されて、その裏にある先住民の悲惨な歴史には全く気付かないでいていた。なぜなら、明治以来私たち日本人が学んだ歴史はすべてヨーロッパ産で、世界史イコール、ヨーロッパ史であり、文明とはヨーロッパ人がつくるもの、文明の進歩、発展や人類の幸福とはヨーロッパ人のためのものであったことに気付かなかった。
発見とは、地球の本の一隅に位置するヨーロッパ人がはじめてアメリカ大陸のあることを知っただけで、そこには紀元前約4万年から2万5千年も前から、アジアに住んでいた我々日本人と同系統のモンゴロイドが移り住んでいた。だから発見ではなく、白人が単に到達したというべきである。
白人が発見したという先住民のインディアス、インディオは、先史時代に渡ってきたモンゴロイドの子孫である。彼らの風貌は、現在の蒙古人や満州人、日本民族とそっくりである。人種的にも赤子に青い蒙古斑がでる同族である。
先住民は何でも喜んで差し出した。先住民にとって初めてみる白人の客人に何の疑いもなく親しみを持って応対したのである。
コロンブス一行は、島から島を渡って、黄金はないか、宝物はないかと執拗に探しまわったがお目当ての金は見つからず、珍しい植物や鳥や先住民奴隷をつれて、1493年3月15日、故郷の港に帰ってきた。
その後、コロンブスが3回もこの危険な航海に出たのは、ジパングの黄金にありつきたい一念があったからだ(コロンブス西航の目的地は日本だった)。彼はスペイン王との契約で、新しく発見した地域の富と資源をもたらしたら、1/10を取得できることになっていたのである。
その手段は武力を使おうともかまわないことになっていて、この探検は最初から新大陸での収奪が最大の目的だったことは間違いない。

スペイン人の中南米インディアス完全制圧のはじまり
スペイン人はまず西インド諸島にやってきて、エスパニョーラ島のインディアスに対して皆殺し作戦を行った。鉄砲をもった歩兵と犬を伴った征服者たちは、島の狩猟採集部族を意のままに打ち破った。女、子どもを逃がさず、強姦し、殺戮した。1496年までにこの島は完全にスペイン人に制圧された。
同様な襲撃は、キューバやカリブ海の島々に対しても行われr多。征服者たちは新世界に国王の名によってやってきたのだが、さらに重要なのはキリスト教の名においてやってきたことである。教会はしばしば彼らの手先として進んで新しい土地の略奪に参加した。
司祭は兵士と一緒に先住民の村に現れ、先住民たちに向かってキリスト教信仰を受け入れるべしとスペイン語で書かれた公式の催告書を読み上げる。そこには、イエスが宇宙の主であり、彼が聖ペテロをローマ大司教に任命し、ローマ法王がアメリカをスペイン国王に授けたと宣言されていた。これに従ってインディアスは信仰に入り、スペイン国王の主権を認めることを強制された。
インディアスはスペイン語が全然分からず、言っていることも書いてある催告書も何も分からないまま従わされた。かれらはイエスのことも、国王も法王のことも聞いたこともなかった。(あたりまえ)
考える時間も与えられず、屈従するしかなかった。これを拒否すれば兵士に殺されることになった。
しかもこのお触れは「その拒否から結果する死と損失は、汝らの落ち度であることをここに言明する」といったひどいものであった。殺されなかった先住民は家を追われて、鉱山労働者、農奴、荷役動物になることを強制された。

神の名のもとに、何をしても許されるという論理
スペイン人はインディアスに対して身の毛もよだつ残虐行為をした。5世紀たった今日でも、それがいかに恐るべきものであったかをためらわずに語ることはできない。
ドミニコ教会司祭がもたらした、カリブ海でのスペイン人の野蛮行為についての二つの目撃談:
「数人のキリスト教徒が乳飲み子を抱いた一人のインディアスの女と出会った。彼らは連れていた犬が腹を空かせていたので、母親から子どもを奪い生きたまま犬に投げ与え、犬は母親の前でそれをがつがつ食い始めた・・・・出産して間もない女たちが捕虜の中にいたとき、もし赤ん坊が泣きだすと、スペイン人たちは子どもの足をつかんで岩に投げつけたり、密林の中に投げ込んだりして、赤ん坊が確実に死ぬようにした」「鉱山での現場監督(スペイン人)の誰もが、その配下にあるインディアスの女と寝ることを習慣としていた。気に入れば、女が既婚者であろうと未婚であろうと。監督はインディアスの女と小屋に留まる一方、その女の夫は山から黄金を掘る仕事に送られた。持ち帰った黄金の量が少ないといって打ちすえられたり、鞭打たれ、手足を括られてベッドのそばに犬のように投げ倒され、そのすぐ上で監督が彼の妻と横になっていることがよくあった」(トーマス・バージャー著『コロンブスが来てから』朝日選書)
このようにインディアスたちは非人間的な状況の下で生き、そして死んでいった。1540年までにカリブ海のインディアスは事実上絶滅させられた。

コルテスの「アステカ王国」征服
スペイン人の中・南米大陸の制服は、世界史上空前の信じがたい出来事だ。スペイン人のコルテスはアステカ王国を征服し、支配を確立し、同じくフランシスコ・ピサロはインカ帝国を滅ぼしてしまった。これによりメキシコとペルーのインディアスは、隷属と悲嘆の中に細々と生き残ることになった。現在、アンデスの町々の街頭で子どもをあやしながら手芸品を売ったり、物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディアスの女たちを見かける。彼女らが生き残ったインディアス子孫の物悲しい現在の姿である。
コルテスが1519年にペラクルスに上陸すると、インディアスは手厚く迎えた。アステカ皇帝のモクテスマは黄金製の宝物を車いっぱいに積んで歓迎した。黄金、これこそスペイン人が探し求めていたものだった。それがあふれるばかりここにあった。この宝を略奪し帰国すれば、大金持ちの英雄になれると直感した。コルテスは部族同士の争いをうまく利用して漁夫の利を得たり、アステカ皇帝に反抗する部族を手なずけて活用するという常套手段を使ってアステカ帝国を滅亡させた。
↑これを読んだとき、もう本当に身の毛がよだちました。この時も、人間には自由選択が与えられていた。もともと平和に暮らしていた先住民たちの後でただ現地に漂流しただけのスペイン人。先住民たちと共存し、学び合い、生きていくという選択肢はあったはず。ところがこの貪欲なスペイン人が選んだ選択は・・・・人間として最低最悪レベルの選択でした。私はもう人間の本当にすさまじい、すさまじい業の深さを感じました。似たようなこと、ずっと続けています。純粋な先住民、住民をうまくそそのかして洗脳し、手なずけてその国で革命を起こして滅ぼすやりかた。戦争を起こさざるを得ないよう仕向ける汚い手口。

インカ帝国を制圧したピサロ
アステカ王国を占領、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探索中のピサロにも届いた。1523年、計り知れない黄金に恵まれたアンデス山中のインカ帝国のニュースを耳にしたピサロは早速インカの地を求めた。
エクアドルからボリビアまで延びる高地に沿って建設されたインカ帝国は、建国してまだ100年足らずであったが、山々を縫う道路、農業台地、雲の中に建設された高山都市と、驚くべき偉業が成し遂げられていた。皇帝アタワルパは、ピサロの進軍を知っていたが、途中で攻撃するような卑怯なことをしなかった。ピサロはアタワルパに使者を送って、来るよう招待した。ところが、ピサロははじめから皇帝を捕虜にしようと決めていた。ピサロの従軍司祭の神父は皇帝に近づき、通訳を通して、キリスト教への改宗を求めた。王は当然それを退ける。するとピサロはこれからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神に名において免ぜられると告げた。
ピサロの合図で、騎兵隊が躍り出て、非武装のインディアスに襲いかかり、数千人をあっという間に殺してしまった。王の従者は王を守ろうとしたが、たちまちスペイン人の剣客によって切り捨てられた。王は人質にされ、ピサロはインカ帝国の支配権をこうのようにして奪った。インディアスの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切った騙し打ちであった。
このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段だ。

捕えられた王は、部屋一杯の黄金をピサロに差し出す。その量はヨーロッパの半世紀分の生産量に相当するものだった。その途端にピサロは王を裁判にかけ、ロープで絞殺した。
ピサロは王の腹違いの弟に王位を継がせ、首都クスコに進軍した。どこまでも王を人質にして利用するためだった。そしてこの最後の王もクスコに連行されて、中央広場で斬首された。
先住民の制圧に勝利したスペイン人の征服者たちは、強制労働と貢物の強要を意味するエンコミエンダ制を、メキシコからペルーに広めた。
インディアスは唯一入手できる労働力として新植民地の経済的前進に不可欠のものだった。征服者たちは農業をまったく知らなかった。インディアスなしでは征服した土地はほとんど無価値に等しかったからだ。これはコロンブスが書いた通りであった。コロンブスの書より
「エスパニョーラのインディアスこそ富そのものである。なぜなら、彼らは地を掘り、われらキリスト教徒のパンやその他の糧食をつくり、鉱山から黄金を取り出し、人間と荷役動物の労役のすべてをするのが彼らだからだ。
メキシコとペルーのスペイン政権が栄える唯一つの道は、インディアスに労役を要求し、その土地を取り上げることで彼らをスペイン人の支配下に保ち続けることであった。そのため大量殺戮と恐怖政治が続けられた。(ちびちゃんHPの別ページ グアテマラの歴史も同じです)
インディアスは、征服者たちに何の罪悪感もなく殺された。殺された者の身元などだれも気にしなかった。
スペイン本国マドリードの中央政府から遠く離れた地にあって、法的禁制などすべて力を失っていた。


ヨーロッパ人による現地の推定犠牲者数

ではスペイン人はなぜ、自由に殺し、奪い、言語に絶する残虐行為を犯してよいと感じたのであろうか。なぜ、インディアスの置かれた状況に同情を覚えなかったのだろうか。その答えとして、トーマス・バージャーは次のように述べている。
「(その原因は)その勝利のあまりの唐突さにあった。スペイン人はその征服の容易さを、ヨーロッパ文明の優越性とキリスト教の優秀性の証だと見た。インディアスが敗北したのは、彼らが静的な退嬰的な社会集団で、挑戦を受けた時、効果的に対応できなかったためである。彼らはすぐ屈服してしまい、同じあっけなさで彼ら自身の神を捨てて、キリスト教に帰依した。
ヨーロッパの征服者にとっては、インディアスは語るべき何の物語も持たなかった。実際、インディアスは、書かれた言語をもたなかったから、その歴史や信仰についての記述は、ヨーロッパ人にゆだねるより仕方無かった。ラテンアメリカでインディアスの権利の無視が続いたのは、こうした初期の出会いに由来している。」

さてコロンブス以来、スペイン人の征服者によって中南米の原住民のインディアスが、約1世紀の間にどれほど犠牲になったかを推計してみる。これをカリブ地域とメキシコ中央部のアステカ地域とペルー中心部のインカ地域に分類してみる。

カリブ海地域の犠牲者  38万人
アステカ地域の犠牲者  2400万人
インカ地域の犠牲者   820万人

以上、約3300万人である。

では、コロンブスが到着した1492年頃、これらの地方の原住民の数はどうだったか。
最大推計で1億1000万人、中間推計で7000万人、最小推計でも4000万人である。
インカ帝国が完全に滅亡した1570年頃、この地方の人口は合計1000万人に激減してしまっていた。これは最大推計の1億1000万人から見ると、約1/10に減ったことになり、ほぼ1億人ものインディアスがヨーロッパ人の征服の犠牲になったことになる。この数は、直接の殺戮の犠牲だけではなく、ヨーロッパ人がもたらした伝染病の天然痘やチフスによる死者も含まれる。
ヨーロッパ人の侵略によって、1世紀足らずの間に、それまで独自の文明を打ち立てて、平和で幸せに暮らしていた罪のない先住民を、ほぼ全滅させてしまったのである。これまでの人類の歴史の中で、これほどの悲惨があったであろうか。
先住民が白人によって受けた被害は、人的犠牲だけではない。大量の金、銀などの宝物が、ヨーロッパに持ち去られた。白人の新大陸征服の目的の一つが、黄金の獲得であったからだ。1660年までにヨーロッパに持ち去られた金は、解っているだけで181トンである。
インディアスが長い間かかって勤労して貯めた宝物を、白人は何の努力もせず、所有者を殺し、奪っていったのである。
ヨーロッパ人が、野蛮人だと蔑視していたインディアスは、彼らが亡ぼした16世紀のアステカ文明やインカ文明よりもっと以前に、この地方に巨大な石の文明を築いて栄えていたのである。そのひとつが、ユカタン半島に残るマヤ文明である。この文明は、4世紀から10世紀にかけて都市国家を形成し、高度の文化を誇っていた。今に残る巨大な石造りのピラミッドに象徴されるとおりである。


ここまで進めてきて、わかったのは、欧米諸国はおよそ無残とか残酷とかの言葉では表現できないレベルの行いを先住民族に対してやってきたということ、その数が半端ではないこと、世界中、つまり地球レベルでやってきたこと
そしてこれほどの残虐性の背景には、欧米諸国の歴史、風土、そして宗教が深く根ざしていること
他の土地のものを奪い、他の土地の人間を殺してその所有物を奪うことが、欧米諸国にとっては、本当に育児をするような感覚で生きるために当然の行いであるとか、しかも、キリスト教の神が望むところであるという大義名分のもとに行ってきたのであれば、なんら罪悪感はなく、むしろ行為の正当性を滔々としゃべることができるでしょう。
正当化する人物がいたとして、別に戦う気はもうとうありません。その人、その国にとっては正当的行いだったのだから。

問題は、では諸国事情を超えたところのこの世の摂理に照らしてみたところでも、侵略の歴史は正当化できる、つまりやっていい、となるでしょうか。

もし、OKなら、十字軍で大量虐殺されたイスラム教徒は、アラーの神の名のもとに、他宗教を弾圧し、改宗させ、殺していいことになります。仏教しかり。それぞれが、それぞれの信ずる神を立てて人類同士殺し合うことは正当化されます。


こんなこといいたくありません。

しかし、人類の歴史は、欧米列強による侵略後(第二次世界大戦後)も、民族、宗教の違いなどによる戦いを休むことなく起こしてきました。
そして今の世の中―――

マネーゲームや他者を泣かして利を得たウハウハの人間やひねくれ者はおいといて、それぞれの理性で考えてほしいのですが、
フツーの感覚で考えて、世の中で起こっていることを見て、今、この世の中(自分・家族・職場という枠じゃなくて地球)が、物質的な富と精神的な富とがうまく調和していると思うヒトはいるでしょうか。

いません。


じゃあなぜ?そう思うのか?

自分の中に暗闇を見るからです。感じるからです。

「あいつが憎い、あいつが嫌い、いなくなればいい、あいつのせいだ、自分がよけりゃいい、自分が得したい・・・」

この1人1人の念が家族の念を形成し、コミュニティの念を形成し、国の念(トップの人間)を形成し、それぞれに悪事をはたらいてきた。
個人レベルで、家族レベル(ex親族間の相続問題)で、自治体と国とで、民族と民族とで(戦争)、国と国とで(戦争)、、、、

一人一人がそうだから、歯止めが利かず、ここまで来てしまった。

でも悪事のその時その時でけ落とされた人間、辱められた人間、殺された人間、抹殺された民族は、死んで無になって、消えているでしょうか。
ケ落とされた時のくやしさ、嘆き、辱められた時の慟哭、抹殺された時の断末魔の苦しみ悶え
こういった念は消えるんでしょうか。
消えるんだったら自殺しようが殺されようがどんな死に方しようがいいですよね。そして、人をケ落としても辱めても殺しても一向に構わない。自分がこの世でしっかり出世してお金もうけて賞賛されていいもの食べていいもの着ていいところに住んでいっぱい遊んでいっぱいやりたいことやってぶっとく生きて死ねばいい。
なのにそういう方向にいかないヒトは多い。人を嫌ったり憎んだりはするけど殺しはしない程度で抑えとく。感情を抑えて我慢して生きてる。
どうして?

人間の中にそうさせない趨勢があるからです。学校で教わる、社会で経験するような道徳観念なんかじゃないもの。
人間の中に霊的なものを感じる目。

でもそれはいつもひっこんでてばかりで、胸を張って出てきてくれない。

で、そんな程度で生きてきたから世の中こうなってしまった。
2012年12月のことを考えるに、アセンションとかスピリチュアルのオタクみたいになってはいけませんが、
人類の終末というか、人類のどんづまりのようなものを感じます。


今までひっこんでいたものをぐっと出してきて、その顔で生きていったら、地球は転換すると感じます。
でもそれは自分のチカラではとうてい不可能です。可能なら世の中もっともっと今よりマシはず。

その方法はないのでしょうか。

キリスト教が繰り返し繰り返しとってきた手法「いかなる責めからも、神に名において免ぜられる」は、自然の摂理から許されるものではありません。しかし、世界はそのキリスト教文明を中心に、キリスト教文明が先導して今日まで生きてきました。
淀み切った果ての自然からの結果が、もう間近にきている気がします。

コロンブスの書より
「エスパニョーラのインディアスこそ富そのものである。なぜなら、彼らは地を掘り、われらキリスト教徒のパンやその他の糧食をつくり、鉱山から黄金を取り出し、人間と荷役動物の労役のすべてをするのが彼らだからだ」

これが世界を主導してきたキリスト教のベースです。隣人愛(隣人とはキリスト教同士の隣人)を説くあのキリスト教です。イエスキリストが説いた世界はこれですか?自然の摂理とはこういうものなのですか?



白人の残虐非道を内部告発した人々
コロンブスの米大陸到着以来の、先住民に対する白人の残虐無法ぶりのあまりのひどさを見て、たまりかねて仲間の非を内部告発した白人がいた。コロンブスと同時代のスペイン人、ラス・カサスである。
さらに現代になって、カナダのトーマス・バージャーは、アメリカの開拓時代に、白人は先住民のインディアンをいかに不法に抹殺していったかを、法と正義に基づいて告発している。
白人の中にも、自分たちの先祖や仲間の非を素直に認め、告発する真に人間的、良心的な人物がいた。
パルトロメ・デ・ラス・カサスは、1474年、南スペインの町セビリアで生まれた。
父はコロンブスの第二航海に参加している。彼も父に従ってサントドミンゴ島に渡航している。その資格は「伝道師」という聖職者だった。彼もスペイン征服者の特権を持つ地主として割り当てられたインディアスの奴隷を使って、採金や農場経営を行っていた。キューバ島に移住し、広大な拝領地(エンコミエンダ)の住人として、物質的利益の追求を続けていたが、突如として回心し、拝領地を総督に返還してセビリアに帰ってきた。
彼は植民地での体験を通して、突如、真の聖職者に戻ったのだ。かくしてインディアスの虐待に象徴される自国スペインの植民地政策に対する強烈な批判者としての彼の不撓不屈の50年が始まった。彼が征服者のあまりの暴虐にたまりかねて、国王に贈った報告書が有名な「インディアスの破壊についての簡潔な報告書」である。(岩波文庫)

ラス・カサスは1514年から1566年に他界するまで、6回にわたり大西洋を横断し、インディアスの自由と生存権を守る運動の中心的役割を果たした。彼はこの報告書で、カリブ海のたくさんの島々の破壊の実態を正確に記述している。特にコロンブスが名づけたエスパニョーラ島(現ハイチ)については詳しく述べている。
この島には300万人のインディアスが住んでいたが、コロンブスが来てから50年あとの1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だったと報告している。
スペイン人はまず、先祖にか必ず金を要求する。初めはその要求に応じていても、ヤクザノ脅しと同じで、要求は次から次へとつりあげられ、ついに暴力をふるうようになる。先住民たちの堪忍袋の緒が切れて反乱をおこすと、それが白人の思うつぼで、彼らは馬にまたがり、剣や槍を持って無差別にインディアスを殺しまくる。
もともとインディアスは武器など手にしたことのない人々だ。武装した土地泥棒の無法者にかなうはずがなかった。
スペイン人は手に入れたインディアスを、男なら金採掘に、女なら畑仕事に活用した。この奴隷たちには雑草のような食物しか与えなかったので、苛酷な労働と飢餓でバタバタと倒れていった。
荷物の運搬には、すべて奴隷を牛馬のように使った。重い荷物を背負わされ、100キロ、1000キロの道を歩かされた。インディアスの背中や肩は、重い荷物ですりむけ、まるで瀕死の獣のようだったが、スペイン人は無知や棒や平手や拳固で、容赦なく彼らを痛めつけた。彼らはインディアスたちを野獣として扱ったのだ。

告発者カサスに浴びせられた非難
この報告が公刊され、世上に流布されるや(1552年)、ラス・カサスは予想もしなかった非難の集中砲火を受ける。それは身内のはずの教会からで、次は新大陸の植民者と結びついている政治家や商人たちからだった。彼らはラス・カサスを「恥知らずの修道士」「狂信者で邪心ある司教」などと指弾して、報告が暴露した大虐殺の事実を覆い隠そうとした。
この報告書は、スペインと対立関係にあった諸国他で翻訳されて400年にわたって政治に翻弄された。
日本でこの報告の翻訳が出たのは1976年(昭和51年)になってからである。日本の西洋史学界がいかにヨーロッパ人の歴史の暗黒面を暴くことに怯えていたかが分かる。

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