素朴で美しい
生き方のかたちというもの




人間のあるべき一番美しい姿、素朴で美しい生き方のかたちというものを
東北の蝦夷(えみし)の人たちが1200年前に持っていたのではないか。


アテルイは最初から権力者であったわけではなく、
平等な自由な仲間の中から、人間的にも最も信頼のおける人として選ばれた。
みんなに信頼されて、推挙されて、みんなの棟梁になった。原始的民主主義です。


劇中歌に「季節の花を愛し・・・」という歌詞で始まるところがある。


一番人間らしく美しい、自然と共生し、みんなで信じ合い、
現代ではそういうことがあり得ないからこそ、
「こういう人間の集団というのは素晴らしいなあ、本来はこうあるべきなんだ」
というように感じてもらえたら、最高だと思う。


そこに、それを許さない勢力が侵入してくる。そしてこのドラマは始まるわけです。

今から10年前2001年8月、ミュージカル「アテルイ―北 の燿星」 演出/中村哮夫氏 ことばより抜粋

ミュージカルのお知らせ チラシ




阿弖流為と田村麻呂

―心と心のつながりに託すもの―         

京阪電車の「牧野」駅から東にゆるやかな坂を少しばかりのぼりつめた所に、春には桜見者の人たちでにぎわう「牧野公園」があります。
歴史に名高い片埜神社(かたの)の北側に位置するその場所に、地域の人たちの熱意ある呼びかけにより、平成19年(2007年)3月に、

「伝 阿弖流為(あてるい) 母禮(もれ)之塚」が建立されました。

牧野公園の大きな山桜と樫の木の根元には、古くから、「阿弖流為と母禮の墓」 と伝えられてきた首塚があります。

(郷土歴史教材より)




平成19年3月4日の除幕式では、実行委員会にも名を連ね、顕彰碑に「伝 阿弖流為・母禮之塚」という碑文を刻んだ
京都清水寺、森清範貫主も参加し、

「この碑は単なる碑ではありません。
鎮魂の碑です。
アテルイが亡くなってから1200年。アテルイの心が生まれ変わったものです」
と喜びの声を伝えました。

坂上田村麻呂が創建したとされる清水寺にも、そして、アテルイ、モレのふるさと奥州市にも顕彰碑があります。
(枚方市広報)




当初は碑にしようとの話もあったそうですが、清水寺の森清範貫主が、
「ここが処刑されたとされる由来の地であるから、碑ではなくて、塚(=墓)にしなくちゃいけない」、として、塚になったそうです。


そして「アテルイ・モレの慰霊祭」が第1回目行われた、平成19年(2007年)9月23日というのは、旧暦でいう8月13日、奇しくも、
アテルイとモレがここ河内国(枚方)で処刑された日、命日だったそうです。

それ以来、毎年9月23日には「アテルイ・モレ祭」として、慰霊祭が行われています。

ご神事の後は、地元の幼稚園児から高校生による歌や踊り、演奏、武道披露、紙芝居といった、催しが行われます。
通常、慰霊祭というと、偉い人が来賓で来て、ご神事や仏事が執り行われて終わるケースがほとんどですが、
ここ枚方の牧野公園の場合は違っています。
大人がやるんじゃなくて、子どもたち中心、育つ子どもの大切な体験学習として、という想い、

アテルイ、モレは庶民のリーダーだったのだから、この庶民的にこのスタイルで、
アテルイ、モレという人物のことを地域で語り継いでいこうという想い。

最初は、塚保存会の方々が司会進行とやっていたそうですが、
ある時点から、司会は地元の学校の教頭先生にバトンタッチ。^^
片埜神社の宮司様はご神事の後、すぐ着替えて、音響、設営など裏方に奔走されています!





牧野公園  片埜神社隣接にある 「伝 阿弖流為 母禮 之塚」

 この塚の奥に見える高地の木のもとにあるのが →                  首塚です  
                           (2013.9.23 第7回アテルイ・モレ祭で撮影)



訪れた時、桜は開花前の平日でしたが、家族や少人数でごはんを囲んだり、子どもたちが楽しそうに遊んでいます。
巡霊とか慰霊などとか大そうな気持ちはなく、ただ、首塚の御前で、お祈りしたり、想いを言葉にしたりしました。


首塚を下りて、阿弖流為 母禮之塚(写真左)へ。


塚の後ろには、この塚を建立した方々のお名前が刻まれています。
「えー、世の中でまだまだ知られていない阿弖流為のことをこんなに世に出そうと、ご供養しようと動いた人たちがいるなんて」
「○○の会」などと団体名にまでなっていて、びっくりしました。



塚の背面を見たいなあ、とちろちろ見ようとしていた時、声をかけられました。
齢70歳くらいの端正なお顔立ちのおやさしそうな人でした。
聞くと、この石塚を建立されたこの塚の保存会会長さんで、石塚の後ろの寄進者3人目くらいにお名前がありました。

「うわー、そんな方にお逢いできるなんて、ラッキー」
聞くと、お孫さんを見送りに行った帰りで、たまたまこの公園に立ち寄ったとのこと。


直接、お話をうかがえました。
また、ご自身が、関係者の方々と協力して作成した、学校用の郷土歴史教材を隣接の片埜神社でいただくことができましたので、
以下で、抜粋しつつ、うかがったお話を織り込んでいきます。




今を遡ること1200年の昔、平安時代のはじめ、東北地方には中央の朝廷から「蝦夷」と呼ばれていた人たちがいました。

かれらは美しく豊かな土地の恵みを受け、田畑を耕し、鮭などの魚を捕り、鹿やイノシシなどの動物を追いながら、
平和に暮らしていました。 
しかし、この頃、京に都を置いていた朝廷は、豊かな田畑や砂金が取れ、良い馬の育つ東北地方を支配することが、
朝廷のねらいになっていました。そのため、朝廷軍は圧倒的な兵士と新式の武器を持ち、力づくで攻め込んでいきました。
その度に田畑を荒らし、家を焼き払い、たくさんの人を殺しました。
こうして、平和に暮らしていた人たちの生活は、度重なる戦乱によって大きく変わります。 朝廷軍との戦いに敗れた人たちは、
自ら降参する者が出たりしながら、だんだんと朝廷の支配に入っていきました。 朝廷は、これらの人たちをうまく利用しながら、
東北地方の支配を固めようとしましたが、支配されていた人たちの中には、ついに怒りを爆発させ、朝廷に反乱を起こす者まで、
現れました。 それに対抗して朝廷は大軍を差し向けましたが、逆にその土地を知りつくした人たちのために苦戦を強いられること
が何度もありました。



「アテルイ様、朝廷軍は5万を超す軍勢で押し寄せてきます。」

「なんと、紀古佐美(きのこさみ)。われらが住む胆沢(いさわ:岩手県奥州市)にまで軍を率いてやってきたか。
いまこそ『蝦夷』と蔑まれ、われらが長年、平和に暮らしてきたこの地を荒らしてきた者共も目にものを見せてくれる。」

「さようで。わが軍は数こそ少のうございますが、兵の士気では朝廷軍などものの数ではありません。
このモレもアテルイ様に最後までついてまいります。」


注釈:
大和朝廷は、日本列島に住んでいた異族を次々に征服していきました。
北方の異族は「蝦夷」と呼ばれました。南方では「熊襲・隼人」がいました。
東北地方から出土する多くの遺跡を見ても、南九州の縄文遺跡を見ても、人々が縄文時代から高い文化を築いていたことが分かります。
各地に「土蜘蛛」と賤称された人たちが散在していたことは文献史料に出てきます。
大和朝廷は、この人たちを「夷人雑類 (いじんぞうるい)」と呼び、「まつろわぬ者」「化外(けがい)の民=獣」として差別しました。
このように、「蝦夷」は朝廷側からみたとき同じ人間としては認識されていなかったのです。


また続日本紀には、780年に光仁天皇から出された勅書にこうあります。

<原文>
勅曰。
夫狼子野心。不顧恩義。
敢恃險阻。屡犯邊境。
兵雖凶器。事不獲止。
宜發三千兵。以刈遺蘖。以滅餘燼。
凡軍機動靜。以便宜隨

<訳>
天皇は次のように勅した。
「狼は子供でも野生の心をもって恩義を顧みない。
そのように蝦夷も敢えて険しい地形を頼みとしてしばしば辺境を侵犯する。
兵器は人を害する凶器であるがこの際使うこともやむを得ない。
よろしく三千の兵を発して卑しい残党を刈りとり、敗残の賊兵を滅ぼすように。
すべて軍事作戦の行動は、都合のよい時に、随時行なえ。」




アテルイたち蝦夷が言いたかったのは、「俺たち蝦夷は、ヤマト人と同じ人なんだ」

その上でなら朝廷に恭順したと思います。金にしても、支配地にしても、欲しがったのは朝廷。
蝦夷は自然と共生して生きており、金など必要としていなかった。ところが朝廷は、蝦夷を人としては見ていない。
同じ人として見てくれるなら、いくらでも持てるものを提供し、ともに学ぶこともできます。

でも、獣と蔑まれては、もはや生きてはいかれない。

自然と共に生きてきた蝦夷たちは、自分たちを守りはぐくんでくれた大地のためにも、

戦う道を選びました。




延略8年(789年)、こうして紀古佐美率いる朝廷軍5万2800との戦いが始まりました。

少ない兵でもきっと勝てる方法があることをアテルイは信じていました。
知り尽くした故郷の山や川は、アテルイたちの味方になりました。

歴史に残る「巣伏の戦い」※1では、こうしてわずかの兵で朝廷軍に圧勝しました。
時の天皇であった桓武天皇も紀古佐美のこの大敗を聞いて激怒したということです。

天皇はあきらめるどころか、今度は副将軍に坂上田村麻呂を任命し、兵の数も10万を超える大軍を胆沢に送り込みました。

アテルイたちの必死の戦いもむなしく、やはり度重なる戦乱のため力を失っていきました。こうして、活躍のあった田村麻呂を
延暦16年(797年)、今度は征夷大将軍に任命しました。 田村麻呂は、延暦21年(802年)には胆沢城を築き、支配を確実なもの
としていきました。


アテルイは、自らの敗北を感じたのでしょう。
こうして、族長のアテルイと副将モレは、田村麻呂に降伏しました。
この時、二人に同行を願い出た仲間の者たちの数は、なんと500人にものぼりました。


800〜802年は、富士山が噴火した延暦の大噴火の時。 天変地異が起きるときというのは、変動、ぬりかえられる時。

桓武天皇は臨終の床で、これまで自分が手を下した人たち、弟の早良親王(崇道天皇)をはじめとした御霊のことが次々に出てきて、
たいへん恐れおののいたたとされています。

注釈:「巣伏の戦い」※1
紀古佐美は進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川(ころもがわ)に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて
行動を起こした。
北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。
そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。
その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら
戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。
この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。 
5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。




戦というものを知らなかった蝦夷が、なぜ、わずかの数で、朝廷軍5万2800に圧勝したか。
団結力だけでは不可能かと思われます。
自然、そして大地が見方したことと、彼らの中に相当なブレイン(策士)がいたと思われます。



アテルイの先祖は、もともと奈良の朝廷の権力者だったのではないか。
しかし時の政治権力において策謀・陰謀はつきもので、先祖たちは東北へ逃れでいった。
かなりの知識人が東北地方に行ったのではないか、と。 
その証拠に、アテルイのフルネームは、大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)。
モレのフルネームは、磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。 
「公」の称がついています。

「公」の意味
平安時代以降、大臣に任ぜられた貴族への敬称として、名の下に「公」の敬称を付ける他、特に位階に関わらず、
自らの主君への尊称として、名の下に「公」と付けて呼ぶ例が、平安時代以降、江戸時代まで続く。




長い間苦楽を共にしてきたモレに、疲れきった表情のアテルイは、こう自分の今の気持ちをもらすのでした。

「なあ、モレ。われらの誇りを守るために、今までよう戦ってきたではないか。
だが、これ以上われらが戦うことはどうじゃ。
いくさの度に田畑は荒れ、多くの仲間たちが傷ついていく。

もう十分ではないか。

私の命と引き換えになるなら。」


「 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。」

そこまで聞いたモレは、アテルイの本当の気持ちを察し、ただただ下を向いてうなずくだけしかできませんでした。



田村麻呂の前に引き出されたアテルイに、田村麻呂はこう話しかけました。

「自ら降伏するというのか! 戦場で死ぬならともかく・・・・。一体おもえは何を考えているのだ?」


「いえ、ただ、最後にひとつだけ約束してほしいことがある。
私に付き添った者の命だけは助けてやってほしい。 私の命はどうなってもかまわん。どのように処刑されてもかまわん。
ただあの者たち・・・。そして、胆沢で暮らす者たちのこと・・・。
田村麻呂、あなただから、私は・・・。」


「共に闘ってきた仲間を助けてほしいと言うのか。」



武将としての強さと人間としての豊かさを兼ね備えていた田村麻呂は、武勇と人柄に優れたこの二人を東北地方を治めるために
必要な人間と考えていました。
また、心の中では、お互いの命をかけて戦ってきた相手であるアテルイに対し、敵というよりも違った感情も沸いてきていました。


田村麻呂はアテルイとモレの信頼の厚さと仲間を思う心に胸を打たれ、いっしょに降伏した500人を解き放しました。



田村麻呂は胆沢の平定と、二人を処刑しないよう、二人を伴って都(京都)に向かいました。
都の天皇(桓武天皇)や貴族たちに命ごいを行いましたが、

「蝦夷たちは野獣の心を持つ者たちだから、虎を野に放つようなものだ。」
(「野性獣心、反覆無定」)

と聞き入れてはもらえませんでした




田村麻呂の願いもむなしく、二人が処刑される日がきました。

夕暮れがすでに訪れてもいいころなのに、初秋の太陽はまだ地平線よりもはるか上にありました。

緑の木立の高台から望む豊かな大河、淀川の水の流れに映し出されて、きらきらと輝いて見えました。


今こうして最期を迎えようとしているアテルイには、その景色が故郷である遠い日高見の国(現在の奥州市付近)を流れる
北上川とだぶって見えたにちがいありません。
アテルイとの約束を果たせなかった田村麻呂は、二人の最期の地としてふさわしい場所をかなえてあげることしかできません
でした。



この夜、都の多くの人たちが、北東の空へととんで行く明るく輝く星を見たといいます。
二人のたましいは、遠くはなれた日高見に帰っていったのでしょうか。

そんな言い伝えが今も東北地方には、忘れさられることなく伝わっています。



アテルイとモレは、龍となって、故郷の地、東北へとんで行ったとも言われています。
来年は辰年です^^


田村麻呂の先祖は、阿智使主(あちのおみ)、中国からの渡来人です。征夷大将軍とはいえ、朝廷の公家たちを説得だけで懐柔すること
ができなかった所以でしょうか。しかも、天皇のおわす京都の地では、蝦夷=獣を処刑することは、許されなかったと。。。せつないです。



蝦夷の族長アテルイとモレが処刑されたのが河内国(かわちのくに)植山(うえやま)(またの名を杜山、椙山)とされていますが、
詳しいことはそれ以上わかってはいません。

けれども、個々牧野の阪地区と宇山地区には古くから首塚(この牧野公園)と胴塚のことが言い伝えられています。
(死してさらに抗うことができないよう、首と胴を別々に葬った)


立場の違いはあったとしても、二人の間に生まれた友情と、自分たちの平和と仲間の命、誇りを守ろうとして、
圧倒的な朝廷軍に立ち向かったアテルイの勇気に思いをはせるかのように、

塚に植えられた山桜と樫の大木は、今日も風に豊かな葉を揺らせています。



現在は、少しもり高になっているだけの感じですが、古くは古墳で、荒れており、人も来なかった。
淀川の洪水の時にここからごっそり土を持っていった。ところが、この塚のところの土を掘り起こそうとすると、決まってブルドーザーが
動かなくなるので、みな恐れて、それからも踏み入れなくなった。

ある霊感のある女性が、「ここにはすごい人が祀られている」 と訴えたそうですが、
「そんな精神的なことは、、、」 と町や市は相手にしなかった。


この教材を作ったのは、地域の子どもにアテルイのことを知ってほしい、学校ではこのことをどう教えているんだろう、を知りたくて、
がその動機になっているそうです。

教材では、一つの課題を子どもたちに提起しています。


なぜ、坂上田村麻呂は、アテルイとモレの処刑の地として「枚方」を選んだのでしょうか。

はっきりと書き残されているわけではありませんが、きっとそこには選んだ理由があったことでしょう。

「敵だった相手の命を助けてやりたい。」

そこまで思った坂上田村麻呂。 
その思いはかなえられず、処刑の地に「枚方」を選ぶことが、坂上田村麻呂がアテルイにしてあげられる、

最後で唯一の“友情の証”だったのかもしれません。



「みなさんがもし坂上田村麻呂だったら、
敵でありながら、固い友情の絆で結ばれたアテルイのために、アテルイの最期の地を選ぶのに、どう考えて選びますか?」 
と この郷土歴史教材は、子どもたちに語りかけます。

伝 阿弖流為・母禮之塚保存会の会長さんは、こう考えるそうです

この牧野公園すぐ隣には片埜神社があり、昔はこの辺一帯は神域でした。
(理由1 葬った地が、後世、荒らされるようなことがあってはいけない)

牧野公園近隣に、九頭神寺の址が残されています。当時は140m四方の伽藍があり、東大寺クラスの貫主のいる寺だったそうです
(理由2 供養のこと まつりごとが篤く行われるように)

この辺り一帯には、古代、土師氏(はじ)といって、古墳を作ったり葬送儀礼に携わる者が多くいたそうです。
(理由3 墓がちゃんと保存されるように)


古くからこの地は「交野ヶ原」と呼ばれ、交野ヶ原の桜は古今和歌集や伊勢物語にも登場し、都の貴族にとってあこがれの地
であったと言われています。




そういえば、ちびちゃんが公園に着いた時、塚前にしゃがんで見入っているおじいさんがいて、
「あ、先客さんだ・・」と思いつつ、ちびちゃんはその裏の首塚へ参らせてもらったんでした。
今回案内して下さった会長さんは、あのおじいさんだったんだ。

塚の建立に先頭立ってやった、いわゆるレギュラーメンバーさんなのに、ふっと立ち寄っては、こうして塚の前で時を過ごされてる

そのお姿が、何とも素朴で、いいなあ・・・

阿弖流為の心、想いが、普段の生活の場に場にあるような。。

会長さん曰く
「もう1200年経ってますから。もう神さまになっています。
神さまですから、いつもきれいにしておかないと。。。
塚を建てた、その後をお守りしていくということ。
自分が守っているとか、やましい気持ちがあったら、とてもできません。
とにかくいつもきれいに。




この度の東北太平洋沖大地震、福島原発事故では、政府や専門家は、ことあるごとに
「想定外」「ただちに・・ではない」など、あたかも人が自然を支配するような物言いをしています。
福島原発を反対していた佐藤栄作久 福島県知事は猛烈に叩かれ、逮捕された。冤罪でした。(いっておきますが佐藤栄作久氏は、
かつての総理大臣佐藤栄作なんかじゃないですよ。別人。時代も違う)
ところが今では佐藤栄作久氏のことが、マスコミで好意的に取り上げられる。

また、ここ枚方市の前中塚市長さんが、東北の後藤市長さんと手をたずさえて、水沢とこの牧野に塚を建立した人です。
その市長さんは談合の疑いをかけられ(これも冤罪)ました。
いやな世です。世の中というものは、本当に必要な、大切な人物を陥れ、抹殺してきた。本当はこの人たちこそ世に必要なのに。
世の中がいかに淀んでいるか、こういうことからもよく分かります。


地震では、これでもか、というくらい、かつてアテルイの活躍した地が壊滅状態、大きな被害を被りました。
 

「人間のあるべき一番美しい姿、素朴で美しい生き方のかたちというものを
東北の蝦夷(えみし)の人たちが1200年前に持っていたのではないか。」


アテルイの時代、東北地方、自然と共生優れたリーダーによって、そこでは今でいう「地方自治」の最も優れた形態が生まれていたのかも
しれません。

今の世こそ、アテルイのような人物が出て来てくれることを必要としています。

    




ミュージカル 北の燿星 アテルイ

わらび座 HP
http://www.warabi.jp/aterui2011/


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