侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか―  清水馨八郎著 続篇

アメリカ、ロシアの野心と領土拡張
アメリカの領土拡張と、インディアン抹殺計画
南北アメリカ大陸のうち、イギリスの植民地となったアメリカ、カナダなど、英語圏の先住民をインディアンと呼ぶ。先にも述べたとおり、彼らは紀元前4万円から2万5000年頃、アジアから当時は陸続きだったベーリング海峡を通ってやってきた人たちで、人種的には日本人と同じモンゴロイドである。
ヨーロッパ人による北米の征服は、中南米より1世紀遅れて始まった。白人は先住民を野蛮人扱いしたが、彼らはアイヌと同じように、先祖の遺してくれた自由の天地で、大自然に抱かれて伝統を守り、天真爛漫に楽しく平和に暮らしていた。そこへ突如、白人植民者が侵入し、インディアンの運命は一変するのである。
当時、北米大陸に侵略してきた白人は、イギリス、フランス、スペイン人だった。だが、イギリス人(後のアメリカ人)と出会ったインディアンの運命が一番悲惨だった。なぜか。というのも、フランス人はもっぱら毛皮のみ関心があり、スペイン人は貴金属に関心があった。そのため、彼らにとって、先住民の抹殺は得策ではなかった。ところがイギリス人の関心は、もっぱら土地だった。
土地とは言い換えれば領土である。イギリスで食いつめた移民たちは、新大陸で広大な土地を入手できるという会社の宣伝を信じてはるばる大西洋を渡ってきたのだ。ここにたちまち先住民との土地争奪戦が始まる。インディアンにはもともと土地私有の観念はなかった。土地の権利、売却、譲渡、契約などの意味すら知らない。それをよいことに、イギリス人は無理矢理契約書に署名させ、合法的と称して騙し、脅して、次々にインディアンの土地を収奪していった。
合衆国建国以来、土地所有をめぐってインディアンと白人との間に結ばれた条約・協定は300を超えたが、そのほとんどすべてが日ならずして反故にされた。イギリス人に都合のいい時は合法性の証文に使われ、都合が悪くなれば、即座に破り捨てられたのである。
メイフラワー号の移民をはじめ、当初の白人植民者の飢えと苦難を救ってくれたのは友好的インディアンたちであった。トウモロコシやタバコ栽培を教えてくれたのはインディアンではなかったか。白人はその恩をたちまちあだで返した。
1830年、ジャクソン大統領は、野蛮人の一掃のためと、強制移住法を制定し、すべてのインディアンをミシシッピー川以西に立ち退かせた。ところが探検や調査が進むにつれ、ミシシッピー川以西も以東に劣らぬ資源の宝庫であることが判明。かくて白人の幌馬車隊は川を越えて西へ西へと殺到した。
インディアンは、白人の度重なる約束違反に激高した。その上、インディアンの命綱のバッファローを、白人は面白半分に撃ち殺していった。かくして西部を舞台に、凄惨なインディアン戦争が繰り広げられる。映画の西部劇は、この戦争を白人に都合よく正義の戦いとデッチ上げて描いたものである。「フロンティア」「開拓」の美名の名のもとに、西へ西へと進められたアメリカ領土の拡大は、力で先住民の土地を奪うことだった。
コロンブスが来たころ、北米の先住民の人口は200万人から500万人で、その80〜90%は今の合衆国に住んでいたと推計される。17世紀以降、植民地建設が進むにつれて、とくに合衆国での殺戮と、白人がもたらした伝染病などによって、その数は激減し、1890年ごろにはわずか35万人まで減ってしまった。
1924年、ようやくインディアン市民権法が制定され、インディアンは、はじめて人間として認められた。
1992年、地球サミットに合わせて「先住民族世界会議」が開かれ、アメリカ・インディアンも参加。彼らは「インディアンは必ず白人に勝つ」と誓った。現アメリカ白人は、過去のインディアン抹殺の原罪におののいている。

アメリカに連れてこられた奴隷たちの運命
現代文明社会では、人喰いとか人狩り、人身売買は野蛮人のすることと教えられてきた。ところが文明人といわれる白人が、この500年間に行ってアフリカ黒人の奴隷狩り、奴隷貿易、奴隷売買、人家畜の行為は、国を挙げて計画的、組織的に行われたことで、人類史上から見ても最も忌まわしい世紀の犯罪と断定しうる。では新大陸に連れてこられたアフリカの奴隷たちはどのような扱いを受けたのか。
奴隷船から陸揚げされた奴隷たちは、奴隷商人に売り渡され、奴隷市場で家畜のように売りに出される。奴隷商人は奴隷を鎖で数珠つなぎにして街に出し、目抜き通りで「商品」の良さを宣伝して競売する。価格は召使い用、農園労働者用など用途によって異なる。奴隷たちは競売台に立たされ、馬を調べるように唇やまぶたをめくられ、ときには裸にされて品定めされ、親子兄弟を有無言わさずバラバラにして売られていった。アフリカ人はどんな思いで耐えていたのだろう。
アメリカ人にとって、奴隷の競売は財産づくりの重要な手段だった。後の南北戦争の時の南軍の将軍たちの中には、奴隷商売で巨利を博した将軍が多かった。
人身売買は人間の歴史とともに古くからある。しかし、近代、これほど大がかりな組織的な200年にわたる人間の売り買いをやった国はアメリカだけである。
巨額な利益をあげた大農園主の邸宅の豪華さは、映画『風と共に去りぬ』でお馴染だ。
奴隷たちの悲惨な生活の実態は、ストウ夫人の『アンクルトムの小屋』で全世界に知れ渡った。この本には「虐げられた人々の生活」という副題がついている。
この本は南北戦争の勃発を何年か早め、「アメリカを変えた本」だとまで言われた。リンカーンはストウ夫人のことを「この大きな戦争を起こした本を書いた小さな婦人」と激賞した。
奴隷たちは鞭打ちにおびえながら、1日中牛馬のように働かされた。しかし奴隷は家畜ではなく白人と同じ人間だから、非道な仕打ちに当然反対した。反乱、暴動に失敗して殺された奴隷は無数であった。1859年のジョン・ブラウンの武装蜂起の際、ジョン・ブラウンは絞首台上で「罪深いこの国の大罪業(奴隷制度)はただ流血によってのみ洗い清められることができると、私は確信する」と予言した。これは翌々年1861年からの南北戦争で実証される。
リンカーン大統領による1863年1月1日の「奴隷解放宣言」で400万人の黒人奴隷が解放された。しかしそれは名目上の自由を得ただけで、実質的な人種差別は現在続いている。
1996年夏、米国アトランタで20世紀最後のオリンピックが開催された。アトランタは南部奴隷市場中心の街、『風と共に去りぬ』の舞台、キング牧師の出身地で、人口の過半数が黒人という「黒人都市」。
開会式の聖火ランナー(モハメド・アリ)も、聖歌の歌手も黒人。100メートルなど短距離走の決勝のスタートラインに並んだ選手はすべて黒人だった。
かつて米国はアフリカから家畜として奴隷を買って南部の農園を開拓させ、それによって栄えた。より力持ち、足の速いものを選んで弱い奴隷は廃棄し、結婚もさせなかった。より強い奴隷を作るために、強い奴隷同士を掛け合わせるといったまるで家畜を品種改良するような手段を使った。こうした「改良」によって、より強く速い者たちが生まれた。オリンピックにおける黒人の好成績はこうした悲しい歴史を反映している。

アメリカが侵略戦争を仕掛けるときの常套手段 
アメリカ合衆国は建国当初(1776年)より、ヨーロッパの動乱に巻き込まれないよう孤立主義の外交政策をとってきた。その分内部では西部開拓や中南米への進出に力を注ぐ。
独立したばかりの近隣の中南米諸国に度重なる介入、侵略をした。まず1845年、アメリカはメキシコから独立したテキサスを併合。その後メキシコと戦争を起こし、その勝利によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア州など南部、西部の広大な領土を併合し、国旗の星の数を一挙に増やした。
この戦争の開戦の契機が「アラモ砦の戦い」。しかしこの戦いは、アメリカが自国のアラモ砦をおとりにして相手を挑発し、わざとメキシコ軍に先制攻撃させ、自軍に相当の被害を出させた上で「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に戦争を正当化し、国民を鼓舞して反撃に移るというもので、これはこの先アメリカが侵略をするときの常套手段となる。
ついで1898年、米国はハバナを訪問中の米軍艦「メーン」を自ら爆沈させ、2060人の乗組員を犠牲にし、これを敵がやったことにして、「メーン号を忘れるな」を合言葉に国民を戦争に駆り立て、有無を言わさずスペインに宣戦布告した。
この米西戦争は、キューバの独立戦争を支援する名目で始めながら、実質的にキューバを保護領化してしう。これによりアメリカは、中南米諸国に対する軍事的、経済的支配を強化するための前進基地を獲得した。
アメリカの侵略の動機は当初から一貫した手口を使ってきている。歴史に正当性を残したいため、騙しの技巧をこらす。「真珠湾を忘れるな」も、ルーズベルトが「騙し討ち」という罠に日本をはめて開戦の動機にしたことは、今や世界の常識になっている。
大統領の長女の娘婿、カーチス・B・ドール氏が語る真実のルーズベルトの言葉「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ」が、すべてを語っている。
この手は湾岸戦争でも使われたフシがある。イラクのフセインをだまし、クウェート進攻に誘い出し、フセインを侵略者に仕立てて世界に宣伝し、待ってましたとばかりアラビアに集中していた米国の大軍を一挙に出動させた。用意周到の準備がなければ、あれほど手際よく大軍を動かし短期戦ができるはずはない。
日本をはじめ世界中から戦争協力の冥加金をを集め、新兵器の商品見本市を果たし、大量の武器弾薬を砂漠に持ち込み、「死の商人」の在庫を一挙にカラにし、この戦争ビジネスは見事に成功、収支決算でおつりがきたそうである。この大芝居も世界はいまだに米国の聖戦だと思い込まされている。
このようにアメリカの戦争は、すべて敵が仕掛けたかのように宣伝し、やむなく立ち上がった聖戦に仕立てて、輝かしい歴史を残そうとする。アメリカはヤラセの名人なのだ。

アメリカの太平洋進出と、ハワイ強奪
1898年の米西戦争は、極東において、アメリカがスペインを押さえて、アジアでの覇権を握る一大契機となった。
アメリカは勢いにのって、太平洋の島々、ハワイ、グアム、サモア群島を奪取した。中でもハワイは先住民のカメハメハ王朝下にあって、明治以来、日本人の移民が多かったのでアメリカは日本に奪われるのではないかと危惧し、リリウオカラニ女王をだまして王朝を滅ぼし、米領土に編入してしまった。
カリブ海域でもアメリカはキューバに度重なる軍事介入をするとともに、パナマ、ドミニカ、ニカラグア、ハイチ等に介入した。パナマにアメリカはパナマ運河を開通させたが、これによって大西洋と太平洋を結びつける重要な流通路を獲得し、南米大陸の航海権、通商権を完全に掌握。さらにいよいよ太平洋から極東に向かって覇権を拡大するチャンスを得た。
こうしてアメリカの侵略最前線は、はるばる太平洋を越えて、いよいよ日本の目の前までやってきたのである。


ロシア帝国の東方進出と不凍港の獲得
ロシアは13〜15世紀にかけて250年間、モンゴル帝国の支配下にあった。その後トルコのオスマン帝国の支配、ポーランド、スウェーデンなど西洋からの侵略に悩まされる。
1480年、イワン3世はビザンティンの後継者、東方正教会(ギリシャ正教)の擁護者をもって任じ、専制的君主政をつくりあげ、ロシアの基礎とした。その孫のイワン4世はシベリアを領土にくわえるなどして絶対主義の基礎を固めた。
その後1613年ミハエル=ロマノフが即位。ポーランド、スウェーデン等の干渉を排してロマノフ朝を開いた。以後ロシアは1917年のロシア革命に至るまで絶対主義の国家として発展する。
ロマノフの孫のピョートル1世(ピーター大帝)は国民に兵役の義務を課し、黒海艦隊とバルチック艦隊を創設、コサック騎馬隊を利用して周辺地域を侵略した。
南部をトルコに西北部をスウェーデンにふさがれているロシアは、常時利用できる港を持つことが絶対必要で、北方戦争でスウェーデンを破り、ポーランドにも優位してバルト海の覇権を握る。またトルコと戦い、トルコ海軍を破り、ドン川河口を奪取。東方のシベリア進出は、無人の野を行くがごとく進められ、1706年カムチャッカ半島を占領し、ロシアの版図は太平洋にまで拡がった。下ってアヘン戦争に敗北した清国の弱みに付け込み、黒竜江(アムール川)以北の地を割譲させた。
かくてロシアは、その名も「東方支配」を意味するウラジオストークに不凍港を建設し、直接日本や朝鮮の脅威となる。ロシアのシベリア進出は、1867年にはベーリング海峡を渡ってアラスカまで領有する勢いとなった。

林子平『海国兵談』が示唆するロシアのあからさまな侵略欲
ロシアの東方進出、侵略の先端が日本の北辺に迫り、1791年ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、通商を求めてきた。続いてレザノフが長崎に来て通商を求めたが、幕府は交渉に応じず帰国させた。その頃からロシアは蝦夷地に侵入して略奪、暴行をはたらく一方、ひそかに探検、測量して、ゴローニン事件を起こしている。
ペリー来航より1ヶ月の後、ロシア使節プチャーチンも長崎に来航、北辺の国境画定と通商開始を要求する。幕府は一応要求を拒絶した。
ロシアの南下が日本の北辺に及ぼす脅威を痛感した仙台藩士、林子平は『海国兵談』を著し、海防の急務を説いた。幕府も、最上徳内、近藤重蔵ら探検隊を派遣して北辺調査を行った。また伊能忠敬に蝦夷地を測量させた。さらに松前奉行をおいて蝦夷地を幕府直轄領とした。1808年、間宮林蔵は、樺太から沿海州までを探検し、間宮海峡を発見している。

(日本国内側からだけで見れば、蝦夷開拓問題で後年、アイヌ民族と日本人(和人)との間に争いが起こるという悲劇があり、アイヌの悲劇として歴史に残りますが、この悲劇のさらに背景には、ロシアからの侵略に対する脅威というものが実は根本原因としてあったのでした。:ちびちゃん記

このように幕末の日本は北からのロシアの脅威に対して手をこまねいていたのではなく、深刻な危機を感じ、警戒を怠らなかった。
ウラジオストークに念願の不凍港を獲得したロシアの次の目標は、満州と朝鮮であった。その手始めに、日清戦争の賠償として、日本が遼東半島を獲得すると、その6日後にロシアは「三国干渉」でこれを清に返還させるよう迫った。当時の日本は三国列強と戦う力がなかったので、涙をのんで返した。清国に恩を売ったロシアは、厚かましくもただちに遼東半島を清から譲り受け、ただちにロシアの軍事基地として奪取した。
1899年清国で起こった義和団の乱の鎮圧後、ロシアは撤退せず、鉄道守備を口実に満州に大軍を送って満州を支配しようとした。さらに朝鮮に対しても着々と朝鮮半島のロシア化を進めた。
このようにロシアの満州と朝鮮へのあからさまの侵略に対して、日本は自衛上日英同盟を締結し、ロシアの極東侵略を阻止すべく、日露間の戦争はもはや避けられぬ情勢となった。

帝国崩壊後、ロシアが編み出した侵略の新手法
近世500年の世界史で、イギリスとロシアの世界侵略による領土拡張の規模の広大さに比するものはない。英国は海の道を通って7つの海に君臨する大英帝国を築いたが、ロシアは陸の道を通って大ロシア帝国を建設した。
ロシアの面積は世界の6分の一(日本の60倍)に及び、ユーラシア大陸の大半を占めた。このため領土内の東西の時差は最大9時間にもなり「西は夕焼け、東は夜明け」といわれるように朝日と夕日を国内で同時に見る超大国になった。このロシア大帝国が日露戦争で日本に敗北、ロマノフ朝は衰退し、続くレーニン革命で王朝は壊滅してしまった。
これによってロシアの世界侵略のや棒はついえたと見えた。ところがそうではなかった。ロシアにとって代わったソ連は、これまでの欧米列強とは全く違う新手の手法で世界侵略に再び乗り出す。
そもそもロシアは100の民族、80種の言語、宗教も多様な多民族国家である。これを1つの国家に束ねていた核がロマノフ朝のツァーリズムであった。その王朝が崩れ去った後、放っておけば各民族はバラバラに拡散してしまう。このツァーリズムに代わる新理念でタガを締め直さねばならなくなった。その新理念が、マルクス主義であったのだ。
国名は、ソビエト社会主義共和国連邦という、地名を冠しない長ったらしいものだった。1919年3月創設のコミンテルン(共産主義インターナショナル)は、世界に向けてばらまかれた革命手形の勧進元であった。コミンテルンが指示したテーゼは絶対で、それに異をはさんだり、反対することは許されなかった。反すればたちまち反党分子、反革命分子として追放された。
この革命も、ロシア国内にとどまっているなら被害は少なかったですむだろうが、これを金銀、香料、織物、奴隷などと同じように交易の対象として世界に輸出しだした。イデオロギーの輸出である。これまでの侵略、覇権文明には見られない新型の手法であった。


共産主義による大粛清と強制収容所の恐怖
20世紀は、人類史上最大の戦争と革命の世紀だった。最大の国家の犯罪を3つあげると、第一がソ連の強制収容所、第二がドイツのユダヤ人虐殺、三番がアメリカの原子爆弾投下だ。いずれもヨーロッパ系白人の残虐性の極みが露呈したものだ。(アメリカ人というのは、米インディアン先住民を抹殺して土地を侵略したスペイン・イギリスなどの末裔だからヨーロッパ系白人:ちびちゃん記

(ソ連の強制収容所:第二次世界大戦が終結直前、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、戦後も旧満州や千島列島などに侵攻し、日本兵らをシベリアなどの収容所に連行、強制労働させた。抑留生活は極寒、飢餓、重労働の三重苦といわれた。46年末から帰還が始まったが、抑留が10年を超える人もいた。厚労省はモンゴルを除く抑留者総数を約56万1千人、死者を約5万3千人と推定するが、総数は60万人以上、死者は6万人を超えるとの説もある。:ちびちゃん記

殺人が公認されるのは戦争だけであった。20世紀に入って、さらにこれに革命が加わった。ロシア共産主義者の辞書には「罪」とか「犯罪」という言葉は一切ない。共産主義者は何をやっても常に絶対正しく、共産主義のためならどんな嘘でも罪にならない。従って罪を犯すということはなかった。
ソ連という国の犯罪のすさまじさ、規模の巨大さに比するものはない。
百人殺しても千人殺しても、犯罪に変わりはない。だがこの数字が100万人、1000万人の単位となると、もはや殺人の実感さえ薄れる。米や鉄の生産高を占め数字と同じになり、殺人にマヒしてしまうのだ。
さらにその野蛮さ、残忍さが猛烈で徹底している。
十月革命直後の2年間で、10冊などで処刑された者は100万人といわれる。その対象はロシア皇帝を先頭とするロマノフ王朝の一族、貴族政治家、軍人、官僚、僧侶、地主、資本家など、旧支配層が中心だった。それだけではない。レーニンは論文で「ロシアの土地からあらゆる害虫、寄生虫を駆除せよ」と命令している。
旧支配層が一掃され、反革命分子狩りも完了して共産主義者の天下がきた。これでギロチンは活動を停止するとだれしも思うが、この常識は共産主義者には通用しない。ギロチンは一度動き出したら止まらないのだ。血に飢えたギロチンは、執拗に犠牲を要求する。犠牲のタネが切れたらデッチアゲをしてでも犠牲者を作り出さねばならない。かくて共産主義者は共産主義者を標的に。これが名高い大粛清である。ギロチンがギロチンを生むことはフランス革命でも実証されている。
偽善崇拝、人間食いのイデオロギー国家、身の毛もよだつ監獄国家、「収容所列島」の実態は、ソルジェニーツィンによって、世界中に伝えられた。
「逮捕は突然やってくる。密告、策謀、でっちあげ・・・。しかしどんな場合でも、一度捕まったら正義を期待してはいけない。法律は守ってくれないのだ。厳しい審問、自白強要、判決、流刑…、黒いカラス(護送車)に乗せられ、中継監獄を経て、ウラルへ、シベリアへ、中央アジアへと送られていく。もはや家族とも想い出とも、一切から訣別しなければならない。
収容所には自由はない。空っぽの監獄はあったためしは一度もない。いつも満員か超満員、粗末な食事、強制労働、炎暑の夜は南京虫と蚊が肉体を責め、酷寒の冬は手足の感覚がなくなる。そして闇の大地に、記憶の糸を紡ぎつつ冷たいしかばねとなって還ってゆくのだ・・・」

マルクス主義侵略の犠牲者は、世界で1億7000万人
このような人間性をマヒさせた共産主義の気が狂った残虐行為でも、ソ連国内だけにとどまっている分には国内問題の範疇であり、外国がとやかく言う筋合いのものでもない。ところがソ連はこれを世界中に輸出していったのである。中国へ、北朝鮮へ、ベトナムへ、カンボジアへ、東欧へ、アフリカ大陸へ、中南米へと輸出され、ソ連国内で起こったのと同じことがこれらの国々で起こった。その犠牲者は、全世界で1億7000万人に及ぶと推計されている。(ニューヨーク市立大学アルバート・ウィークス教授の推計)

(今の北朝鮮の異様な行い、カンボジアのポルポト政権による大虐殺等、その根源にはまたソ連がいたのです。ソ連のこの世における罪とは一体どれほどまでのものか・・・おぞましさにもほどがある:ちびちゃん記

16、7、8世紀における白人キリスト教徒たちが、南北アメリカ大陸の原住民のインディアンやインディアス1億人を神の名において抹殺し、さらにアフリカから数千万人の人間を奴隷として運び出し、その半分以上を不良商品として、大西洋に捨てた残虐の大罪も、マルクス主義による虐殺には及びもつかない。マルクス主義は、神なき一種のマルクス教という恐ろしいイデオロギー宗教だったのである。

戦後は日本でも、このマルクス教に洗脳された多数のシンパがあらゆる分野に入り込み、社会主義革命を煽動した。この嵐は特に大学教授、学生、日教組などの教育界とマスコミ界で吹き荒れた。中でも東大教授のような日本最高のエリートの中に、反国家、反体制社会革命の悪魔の思想家たち、横田喜三郎、大内兵衛、丸山真男、宮沢俊義、羽仁五郎らを多数輩出したのは戦後の最大の不幸だった。
その影響はソ連崩壊後の今に及んでいる。彼らは本当に戦後日本にソ連のような社会革命が起こると確信していたらしい。その時粛清されないように保身術としてアリバイ作りのための反日論評や運動を行っていたのである。国費で多額な給料で養われていながら、国家転覆の革命運動をリードしたとすれば、まさに裏切り者、弾劾されてしかるべきである。


白人の植民地争奪戦の結果としての第一次世界大戦
第一次世界大戦は、一口に言うと、ヨーロッパ白人たちの世界植民地収奪、奪いあいの末の、分け前をめぐる内輪もめの結果だった。たくさん泥棒した先発組の英仏露と、まだ取り分の少ない後発組の独墺(オーストリア)伊などの醜い争いだったのだ。大泥棒と半泥棒の大ゲンカと見れば理解しやすい。
後発のドイツは、新しく生まれた電機工業、化学工業の分野で世界をリードする勢いを示し、イギリスに対抗する形勢になってきた。
これを見てイギリスは圧倒的経済優位性の上に安住してばかりはいられなくなった。ヨーロッパ諸国の産業革命の進展は、残された暗黒大陸のアフリカに向かって一勢に植民地争奪戦を激化させた。
イギリスは、アフリカの北の拠点カイロと南の拠点ケープタウンを結ぶ縦断地域を連続して手にいれ強化し、さらにインドのカルカッタを結ぶ三拠点を強固にして、この三角形で植民地支配を推し広げる「3C政策」を打ち出した。
イギリスはエジプトに介入し、スエズ運河を確保し、本国から地中海を経由し、インド洋に出る流通経路を生命線と考えた。これによりイギリス植民地支配のかなめであるインド支配を永久的なものにしようとした。
対してドイツは、衰退するオスマン・トルコを援助する名目で、トルコよりバグダッド鉄道建設の許可を得た。この鉄道は、ドイツ王国のベルリンから現在のイスタンブールであるビザンティウムを経て、バグダッドにいたるもので、ドイツはこの三拠点を強化する「3B政策」を打ち出した。
この政策はイギリスの3C政策を真っ向から脅かすもので、また当時日露戦争に敗れ、アジア進出からバルカン半島へ進出の主力を転換していたロシアとも対立するものだった。イギリスはロシアと英露協商を締結して、ドイツに対抗することになった。
このような背景下に、第一次世界大戦はささいな事件が発端となって勃発した。サラエボでオーストリアの皇太子夫妻が、セルビアの青年に暗殺された。しかしオーストリアの背後にはドイツが存在し、セルビアの背後にはロシアがあった。このため、この事件はイギリス、ロシアと、ドイツとの戦争状態に発展し、そこにフランスなどの他のヨーロッパ諸国も加わって、全面戦争に発展してしまった。
第一次世界大戦は1914年7月に始まり、当初数カ月で終わると思われたが、その後延々と4年半も続いて、死者900万人、失明や手足の損傷、戦争神経障害者2000万人にも達してしまった。さらに忘れてならないのは、第一次世界大戦で植民地宗主国は、自己の植民地の原住民を傭兵として狩りだし、第一線で戦わせたのである。その動員数300万人とも言われ、大半が白人のダミーとして犠牲にされた。
この惨憺たるヨーロッパ世界の現状を観察して、ドイツの歴史学者、オスワルト・シュペングラーは、畢生の大著『西洋の没落』を書き残した。さしもの西洋文明も成熟期を過ぎ、もはや死滅期の冬の時代に入ったことを予感したのだ。


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